「自分なんて」という考えをやめてみる。
今朝、元同僚のSさんが「AとB、どっちがいいと思う?」とデザイン案を送ってきてくれました。
眠い目をこすりながら、今の自分の直観で「Bがいいなぁ」と返信。
すぐさま「背中を押してもらった!ありがとう!」と返信が。
話しを聞いてみるとSさんとデザイナーさんはBを推してて、でもチームアンケートだとAが多く迷っていた模様。
仕方なくAにしようとしていたところ、最後に私の意見を聞いてみようと連絡をくれたのだそう。
え、私なんかの意見で大丈夫…!?と思ったのだけど、なぜかSさんは同僚だった時代から私の直観を信じてくれていて、大切な場面で意見を求めてもらうことが多かった気がします。
Sさんは元々「井上はここが得意である」というのを根気強く伝え続けてくれていた人でした。
私はその得意な部分を活かしていけばいいものを、あれもやらなきゃ!これもやらなきゃ!とみんなと同じようにやることに必死になっていたんです。
キャパがおちょこの裏しかないくせに、得意なこと以上をやろうとしてしまう。
そのたびに他の人と比べては落ち込み、自分を責めるということを繰り返す意味わかんなドM女が爆誕。
変な風に自分を追い込む「癖」みたいなものがあり、染み付いてしまってるんです。
この「癖」って本当に厄介だなぁと。
この考え方の癖を持ち続けていると厄介なのが、自分のことも相手のことも受け入れられなくなってくるんです。
自分を好きな人、大切にしてくれる人に対して、自分なんかがそんなふうに思ってもらえるはずないと自分を下に下に卑下してしまう。
そしてもっと厄介なのがそれに対して「そんなことないよ」と言ってほしいんです。
意味わかんなドM女に、メンヘラかまちょも追加になりました。
私はずっと自分に自信がもてなくて、決めたもの、発信するもの、選択したものに不安が残りやすいタイプでした。
これでいいのかな、誰かを嫌な気持ちにさせてないかな、といつまでもうじうじと悩むのです。
多分、この考えになるのってまず自分が自分を信じてあげられてないんだと思う。
勝手に「自分なんか」に縛られている、意味わかんなドMメンヘラかまちょの自己受容できない女という最終進化系まで成長しました。
でも最近やっとこの考えから少し解放させられつつあって、というのも本当に小さな世界で生きるようになったからだと思います。
私にとって「小さな世界」というのはかなり重要だったようで、シルバニアファミリーのごっこ遊びみたいにここにはこれ置いて、お友達はこの子で、今日はいちごのジャムを作ってみたいな、登場人物を限定したり、自分の手の届く範囲で物事を考えられると整理しやすくなる。
全部自分の目で確認できる範囲でチョイスできる環境にいることが、私の心の安定に繋がっていたようなのです。
もちろん世界はかなり狭まってしまうような気もしますが、20代から30代後半まで、自分のキャパ以上に広げることはやってきたので、あとは狭めていく作業も必要かもしれないと考えるようになりました。
自分にとって居心地のいい環境というのは、人それぞれ違うもの。
私は今まであーでもないこーでもないと考えては失敗を繰り返していました。
でもその失敗も決して無駄なんかではなく、気付きを得るために必要な工程なんだと思う。
やっぱり人って自分で気付かないと腑に落ちないし行動できないもの。
遠回りしても少しずつでも自分の理想の生活になっていけるよう、頭の中を言語化して直観を大事にしていけたらいいなぁと思います。
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