こ:交換日記が宝物
あいうえお回顧録 こ 交換日記
交換日記と言うと小学生女児が友達と書き合うものをイメージするかも知れませんが。まあそう言う経験も有りましたが(40年近くも前ですがな!)
今回のお話の交換日記は母との物です。そして割と最近の出来事です。
その前に。
去年の暮、母が突然体を壊して入院する事になりました。本当に突然の事で「何だか手が痺れる……」から始まってあれよあれよと言う間に歩く事もままならなくなり、2週間後には入院になっていました。
簡単に言うと首を通っている神経を老化で変形した骨が圧迫しているために、その神経の先の器官に異常が出ているとの事。
で、首の骨を後ろから切開して左右に開いて空間を作り、その状態で骨をボルトで固定して圧迫を無くすと言う手術です。
いやもう、聞いただけで怖い手術だったんですが幸いな事に術後は順調に回復して今は日常生活に支障は有りません。先生ありがと。
で、交換日記の話に戻ります。
母は入院当時77歳。今時はこの世代でも携帯スマホは当たり前かもしれませんが、母が外に出るのは基本的に町内か畑な上、買い物に出る時はほぼ父と一緒なので持っていないのです。
そんな母が入院するとなると病院からの連絡手段は公衆電話のみ。しかも入院した翌日が首の手術なので10日程は自力で電話できるのかも怪しいところ。
折りしも世の中はコロナの第八派の真っただ中。家族と言えども面会は一切禁止。許可されているのは職員さん経由での荷物の受け渡しのみとの事。
予想はしていたけど面会が出来ないのはマザコンに近い私にとって本当に辛かった……。
そんな中で閃いたのは母と交換日記をする事。
1冊では持っていない方が滞るのでお互いの2冊に予備を加えた計3冊の大学ノートを用意しました。
そのノートに母は入院中の出来事や持って来てほしい物を書き、私は外の出来事を書いて受け渡しの荷物に入れていました。
入院した日の母の字は痺れた手のために筆跡も読めない程に荒く、小さな字も書けないのでノートに4行ぐらいしか書けない程に大きな文字。その文字で手術への不安と家族への詫びを綴っていました。
術後は3日を過ぎた頃から再開され、まだ痺れの抜けない荒い筆跡から始まって退院の日までに少しずつ元の母の筆跡へと戻って行きました。
第八派の真っただ中なだけあって、母の同室の患者さんや母の担当の看護師さんが陽性になる事も何度かあり、母が感染する事は無かったもののその度に1人部屋に隔離されて食事も別メニューになったりで、辛い心中を書き綴ったりもしていました。
どうやら隔離されると院内で作られた温かい食事では無くて仕出し弁当が出たらしいのです。しかも冷えてる。
おそらく配膳担当の人や調理場の人達を守るためだとは思うのですが、せめて温めてあげて欲しかったなぁ。
退院した母に「何が食べたい?」と聞いたら「温かい物が食べたい」と言われて、え?どういう事?と確認して初めて知りました。
思わず泣きそうになりましたが、退院した足で食べに行ったのは回転寿司でした(冷たい……)
そんな経緯で母と交わした交換日記3冊は私の手元にあり、たまに読み直すと1年程前の事なのにもっと前の事のような気もします。
私は結婚するまで実家に居たので、兄のように仕送りの荷物を貰った事がないので母から手紙を貰った事が有りません。
兄を羨ましく思っていたのですが、交換日記も手紙ぐらい良い物じゃないかな?と思っています。
私のとても大切な宝物です。