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別れの告げられない過去/ショートショート

「私たち、生きていていいと思う?」
清花の通夜の帰り道、久美子が私に問いかけた。
「知らないけど、私は死なない。どんなことがあっても」
 私には死ねない理由があった。夫とは離婚し、2人子どもを抱えていたし、下の子は脳に障害を抱えていた。死ねるわけがない。清花にしたって、一人娘を遺していた。なぜ、今になって死を選んだのか。遺書は遺されていなかった。ただ、清花が死を選んだのは〝あの日〟と同じ日だった。それは単なる偶然ではない、と久美子は感じているようだった。
 私と清花と久美子は、中学の時バレー部に在籍し、共に汗を流した仲だった。元々弱小チームだったが、私たちの代になる頃には、全国大会に出場するほど強くなった。その原動力となっていたのが、顧問を務めていたY先生の指導だった。かつて、実業団でのプレー経験のある先生は、私たちを鍛えに鍛え抜いた。部員たちは、そんな先生を次第に心酔するようになった。先生の喜ぶ顔が見たい、先生のためなら何だってできる。全員が同じ気持ちだったと思う。そんな最中、〝あの出来事〟が起こった。あれは夏合宿のとき。その日、私は朝から体が重くて、思うようにスパイクが決まらなかった。夜、当時、付き合っていた彼と一晩中電話をしていたのが効いたのだろう。おそらく、先生は見抜いてのだと思う。エースでキャプテンであった私は、見せしめのようにしごかれた。レシーブ練習で強打が取れないとどんどんと近づいてきて、至近距離になり、わざと顔面を狙ってきた。私が避けると、パイプ椅子を投げつけられた。それから、皆が休憩中でも私だけフライングレシーブをひたすら続けるように命じられた。次第に私は、何も思考することが出来なくなった。ただ、この地獄のような時間が過ぎることだけを願った。その日の夕飯は何とか食べられたが、すぐに全部吐いた。合宿はまだ2日残っていた。これ以上は耐えられない。逃げたかったが、逃げる気力すら残っていなかった。目を瞑るとそのまま眠ってしまう。眠ると朝を迎え、練習が始まる。消灯時間を過ぎても、私は寝室に居られず廊下をうろうろとしていた。すると、久美子が血相を変えてこちらに走ってきた。
「せ、先生が…」
 私は久美子に手を引かれ、先生の寝室に行った。すると、そこには下半身があらわになった惨めな姿で、頭を抱えもんどり打っている先生の姿があった。傍らには、一糸まとわぬ姿で震えている清花の姿があった。私は、この部屋で何が行われていたのか、一瞬のうちに把握した。
「どうしよう。救急車呼んだ方が良いかな」
 久美子が私に判断をゆだねた。先生は顔面蒼白になり、容易ならざる状況であることは誰が見ても明らかだった。行為中に何らかの発作を起こしたのだろう。今すぐ、救急車を呼ばなければ命も危ない。何とかしなければならないが、私の心の中で奥底から押さえられないほどの怒りが沸き立っていた。昼間、偉そうにしごきまくったこの男は、夜、あろうことか生徒とみだらな行為に及んでいた。あのしごきは何だったんだ。私は、この人に見込まれていたのではなかったのか。
「呼ぶにしたって、どうやって説明するの」
 私が言うと清花は「私はいい。それより先生の命が」とほざきやがった。
「これはあんただけの問題じゃないの」
「でも…」
 なおも、食い下がる清花を今まで黙っていた久美子が制した。
「服を着なさい。私たちはここにいなかった。何もなかった。それでいいの」
 なぜ、清花だったのか。なぜ、先生の相手が私じゃなかったのだ。私とおそらく行為をのぞき見していたであろう久美子の思いが共鳴した。その圧力の前に、清花は圧倒された。震える手で服を着始めた。
 朝方、トイレに起きた別の部員が廊下に倒れている先生を発見し、ようやく救急車が呼ばれ病院に搬送されたがその日のうちに先生は死んだ。

 家に帰ると、下の子が暴れたのか部屋が無茶苦茶に荒らされていた。上の子がテレビゲームをしながら「アイツ、最悪だよ」と愚痴った。疲れ果てた下の子は、床に突っ伏して眠っていた。私は、下の子の頭を撫でながら、自然と涙がこぼれた。次第に耐えきれなくなって、子どものように声を出して泣き始めた。
「私たち生きていていいと思う?」
 久美子の声が脳内に響き渡る。ひとつの命の重みを知れば知るほど、自らの愚かさが身にしみる。もう、どうにもならない。
 気づいたら、上の息子が私の背中を優しくさすってくれていた。

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