人間は吸う息・吐く息、ふたつの息で生きています。呼吸は意識すると深さや回数を自らの意思で自由にコントロールすることが可能です。しかし、日常の仕事や生活においてあえて呼吸を意識することはまずありません。古代やまと言葉では、「し」は「息」「風」を意味していました。(『岩波国語辞典』)死ぬときは「息を引き取る」「息絶えた」ともいい、生き返ったときには「息を吹き返す」といいます。
バイタルサインという医療用語があります。生命の徴候のことで呼吸、脈拍、血圧、体温のことです。病院に受診した際に看護師さんによってバイタルサインの確認をしますが、看護師さんから「これから呼吸の回数を測定させていただきますね。」とは間違ってもいいません。なぜならば、意識してしまい患者さんの正確な呼吸の回数を数えられなくなってしまうからです。
意識する息(顕在意識)=目に見える世界(顕界)、無意識の息(潜在意識)=目に見えない世界(幽界)であると考えると、人は呼吸を通して常にこの世と霊界につながっていることがわかります。
『日本書紀』に記されている「顕幽分任の神勅」では、伊勢の神宮に祀られている天照皇大御神(アマテラススメオオミカミ)は「見える世界」、出雲大社にお祀りされている大国主大神は「見えない世界」を統御するというお役割が定められています。それが、私たちが住む現実世界の顕世(うつしよ)と、「あの世」と呼ばれる見えない世界、幽世(かくりよ)になります。
私たちが住んでいる見える世界(顕界)と、御霊の世界である見えない世界(幽界・霊界)が一体のものであり、見えない世界こそが、この現実の世界の根源であるという世界観のことを「顕幽一如」といます。何事も根拠を求められる今日ですが根拠を示すことができない霊妙不可思議な世界は確実に存在するのです。古代から霊性を重んじる伝統的美風を有する国柄が日本であり、ゆえに「霊(ヒ)之元」と称されるのです。
人間は、霊魂と肉体が結合している状態で生存しています。霊魂が肉体をまもり、肉体は霊魂をまもります。そして、霊魂と肉体はお互いに影響しあいながら蜜切な関係を保つことを「霊体一到」といいます。
大本の出口王仁三郎(1871~1948)は、「精霊は人の本体で肉体はその精霊のころもなりけり」と示され、霊魂が主体で、肉体はその容器、衣であると説き、これを「霊主体従」と表現されました。※精霊は霊魂ともいいます。
息には、息と息の間の切れ目が存在します。神道日垣の庭の日垣宮主は、「出雲神界は、此の切れ目に存在する二息むすびの世界である。」と述べています。(『日本に伝わる知恵の泉 さまざま物語り』)
東に位置する「日出ずる宮」がお伊勢さま、西に位置する「日沈む宮」が出雲大社です。日蓮宗の宗祖・日蓮大聖人(1222~1282)は、房総半島から昇る太平洋の朝日に向かい初めて「南無妙法蓮華経」とお題目を声高らかに唱えたのです。浄土宗では、西方浄土といい西に沈む夕日に無常観を見出して「南無阿弥陀仏」とお唱えします。「南無妙法蓮華経」の言霊は気分を高揚させるエネルギーがあります。また、「南無阿弥陀仏」の言霊は気分を沈静させるエネルギーがあります。したがって、出雲大社は、神道のなかでも慰霊を重視するという美風があります。日蓮宗は、仏教教団のなかでも神道的色彩が強い宗派であるといってよいでしょう。
江戸時代後期の国学者である中西直方(1634~1709)は、「息」をキーワードにして人間の誕生と死について実に奥深いことを述べています。
当ニ知ルベシ 人生ノ之始 父母和合ノ時 口鼻之息 天地之気ニ通ジ 神霊遊魂シテ渾然トシ 父母ノ精神ト妙合シテ 母体ニ宿ル(『神明斉元要鑑』)
人間の誕生については、夫婦和合の時、口鼻の「息」が天地の気に通じ、神霊と父母の精神が妙合することによって、母体に命が宿るのだといいます。
人間は誕生の際に「息」を吸い込み初めて肺が膨らみます。肺呼吸に変わった驚きによってオギャーと産声をあげるのです。その「息」とは自身に連なるたくさんの先祖たちがこの世で生存していた時に吐いて、吸いこんだ「息」でもあるのです。中西直方は、夫婦が性交によって結ばれ、夫婦の精神と祖霊が性交時の「吐息」によっても結ばれると述べていると考えられます。
命の尊さを伝えるには、わが国の「息」の文化を次世代にもきちんと語り伝えていく必要があると思うのです。