私は、熊野神社の神職と日本救急救命士協会の会長、救急救命士を養成する大学の教授をしています。神職と救急救命士は、まったく異質な仕事のように見えますが、「命と向き合う」という意味において、実は密接に絡み合っているのです。 神道において「顕」とは、目に見える世界。「幽」とは、目に見えない世界をいいます。私にとって救急救命士は「顕」における仕事であり、神職は「幽」における仕事です。この二つの職には「救い」という共通点があります。「目に見える世界」と「目に見えない世界」の両方
人間は吸う息・吐く息、ふたつの息で生きています。呼吸は意識すると深さや回数を自らの意思で自由にコントロールすることが可能です。しかし、日常の仕事や生活においてあえて呼吸を意識することはまずありません。古代やまと言葉では、「し」は「息」「風」を意味していました。(『岩波国語辞典』)死ぬときは「息を引き取る」「息絶えた」ともいい、生き返ったときには「息を吹き返す」といいます。 バイタルサインという医療用語があります。生命の徴候のことで呼吸、脈拍、血圧、体温のことです。病院に受診
新年初の神葬祭を奉仕するにあたって、霊柩車の運転手さんとしばらくお話しする時間がありました。 火葬場に遺体を搬送する間の数々の不思議な霊的な体験談を語ってくださいました。生き様が死に様としてはっきり現れることをよく知ることができました。 しばし車中で私が神道講話をさせていただくと涙を流されて私のお話しを聞いて「ありがとうございます」とおっしゃってくださいました。 運転手さんは、私が今まで霊柩車の車中で、「ありがとうございます。」と言った方は3人います。そのお一人は先生ですと
私たちの住む世界には、「目に見える世界」と「目に見えない世界」が存在しています。 森林に生い茂る大木を私たちの目で見た時、その大木を支えている地中深くにしっかりと張りめぐらされた、根の存在に思いを寄せてみましょう。 根は、目に見えない世界で役割を発揮します。根が地上の目に見える世界に出てくれば、役割を果たせずに大木を枯らしてしまうのです。 私たちの命の根とは、近くは父親・母親、祖父・祖母でありご先祖様そのまたご先祖様のご先祖様である大先祖様と命のルーツをたどっていくと、最
現在より未来に廻ることにより自他ともに幸運を持つことができ、保証印は左より右に押し左にぬくこと最も良い捺印方法とされています。 又神印には目印がありませんが捺印前に慎重に捺印の結果を考え事故の義務と責任が果たせるか再検討する余裕を持つ必要があるからです。
須佐之男命が冒した悪業が「天津罪」です。 畔離(あはなち) 天照大御神の他の畔をこわし、水を干してしまうこと 溝埋(みぞうめ) 田に水を引くための溝を埋めて、水を止めてしまうこと 樋放(ひはなち) 田に水を引くための樋を壊してしまうこと 頻蒔(しきまき) 定量以上の種子を蒔いて、健全な稲の育成を妨げること 串刺(くしさし) 今でいう”差し抑え”などの立て札を他人の田に刺したてること 生剥(いけはぎ) 生きたままの馬の皮を剥いでころしてしまうこと 逆剥(さかはぎ)
食前 静座一拝一拍手 たなつもの百の木草も天照す 日の大神の恵みえてこそ (いただきます) 食後 端座一拝一拍手 朝宵にも物くふごとに豊受の 神の恵みを思へ世の人 (ごちそうさま) 詠人 本居宣長
平成における大きな災害と言えば、「阪神・淡路大震災」と「東日本大震災」である。これらの災害をひとことで表現するならば、阪神・淡路大震災が「火」、東日本大震災が「水」の災いといえるだろう。古来、日本人は、“火”と“水”の働きやエネルギーに神性を見いだし、その畏敬と畏怖から「火」や「水」を神様として崇め信仰するようになった。一説として神の語源は、火(カ)と水(ミ)から火水(カミ)と読ませ、そこから「神」に転じたとも言われている。 『皇典古事記』によれば、伊邪那美命(イザナミノミ
神嘗祭とは、その年の新穀を天照大御神様に奉り、ご神恩に感謝する伊勢の神宮でもっとも由緒深いお祭りです。10月17日は内宮で午前2時、正午、午後6時に「神嘗祭」の祭典が行われます。 しかし、政府は10月17日には故中曽根康弘元首相の合同葬が行われるため、国立大に日の丸の弔旗掲揚を求める周知文書を発出しました。 年間1500回ある神宮のお祭りのなかでもっとも重要なお祭りが「神嘗祭」なのです。収穫の恵みに感謝する神嘗祭は、稲作を中心とし暮らしてきた日本人の歴史と生活そのもので建
日本は、「縦社会」といわれますが、その文化を表すひとつが文書を「縦」に書くということです。 文字や言葉は、天界の神様から授かったものだと考え、言霊が上から下に流れる様を表現しています。 横並びの社会になった現代ですが、この要因のひとつとして英語の横書きというフラットな文化が戦後を機にGHQによって徐々にもたされ定着していったのです。 お墓を見ても米国では、フラットなので個を中心にするので個人墓です。日本は、縦の文化なので「縦の命」を尊びご先祖様と一緒に埋葬するのです。
大相撲で、力士が神聖な土俵に上がる際にお清めの儀式で使用されるお水を「力水」といいます。 その「力水」は、福岡県直方市の米菓製造会社であるもち吉が無償提供する「力水」を使用しています。 大相撲令和2年3月場所ではコロナウイルスの感染防止のため、柄杓を控え力士から受ける所作は行うものの口は付けない「形だけ」の”エア力水”が行われています。
神主さんは「霊」を信じるのですか? と聞かれることがありますが、私は「霊」を否定しません。霊性を否定することは、神道を否定することになってしまうからです。 神道では、万物に霊性が宿る、と考えられています。山、川、海、木や花、すべての自然、そして生き物には霊が宿っています。もちろん私たち人間も、「神の分け御霊(みたま)」を頂く神の子。だれの肉体の中にも、霊は宿っているのです。 そして肉体の死によって、その霊は体を離れ、黄泉の国(よみのくに)へと向かいます。すぐに黄泉の国へ
ストレス発散法は、ときにより人によりさまざまです。その目的は、「重い気」を「軽い気」に変えるためです。 「気」とは、私たちが生きるエネルギーの源のようなものです。神様が目には見えない存在であるように、「気」もまた、目には見えないものです。その「気」が弱くなっている状態が「弱気」、病んでいる状態が「病気」、それが元の状態に戻れば「元気」になります。 私たちは、明るく生命力の旺盛な人に接することで「好い気」をもらうことができます。しかし、暗く生命力の低下している人に接すること
神様は、実際に目で見ることはできません。しかし誰にでも感じることはできます。私たち日本人の祖先は、遥か遠い昔から、草木にも石ころ一つにも神様が宿ると考えてきました。火の神、水の神、土の神…人々は自然界のあらゆるものの中に、神様を見たのではなく、感じてきたのです。 「感じる」とは、どういうことなのでしょう? たとえば、満床のICU(集中治療室)と美しい湖を望む山の上でそれぞれ深呼吸したとしましょう。どちらの空気も成分は同じ、たとえ匂いまでまったく同じだとしても、確かに「空気
救急看護は、大変やりがいのある仕事です。事件や事故、重病という、ふつうに暮らす人にとっては生涯の一大事が「日常的」に繰り広げられる壮絶な現場です。それをいちいちストレスと感じていれば必要な看護をこなすことはできませんが、だからといって生命に対する感覚を麻痺させてしまえば、自分の命や心に対しても鈍感になってしまいます。 古代の日本人は、自然の中で自分の感性を磨き(あらゆるものの中に神様を感じ)、日常の些細なことにも「ありがとう」という気持ちを忘れずに生活してきました。それは
秋は「飽き食い」(あきぐい)が約まって「秋」になったとの説があります。 「飽きるほど食べる」では、一体だれが食べるのでしょうか?それは、秋の収穫を先ず神様に飽きるほど食べていただくということです。 何事においてまず第一に考えなければならないのが、神様のご存在なのです。