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息子先生(言いたくない編)
何度も出来事を変えて私に訴えてくるものの正体
それは、『ファイティングポーズをおろして相手に寄り添ってから、言う必要のあることは、きちんと伝える』
歳を重ねてから私は、言いにくいことを伝えることが苦手になった。
それは、言い過ぎる傾向があることからきていると思っている。
『言わなくていいことと言いたくないこと』は、違うのだからと息子先生は言う。
『言う必要のあることと言わなくていいこと』は、内容は道理の話で『言いたいとか言いたくない』とか言う話とは別物だと言う。
そうなのだ。
言いたいとか言いたくないとかは、個人の問題で、感情からくるものだと言う。
そうなのだ。
私は、いつも感情が先に立つ。
それを息子先生は、悪魔だと言ってほくそ笑む。
「いいんだよ。自分を悪魔だって知っていれば」と笑う。
「エセ天使になるからダメなんだよ。」とエセ天使呼ばわりされる。
この頃、お仲間たちがNVCなるものを推奨しているおかげで、出来事と感情とニーズを分けられるようになってきたと思っている。
それでも、息子先生は満足いかないようで
「俯瞰して見るだけでは、相手に寄り添っていないから、最後は、感情的な言葉をぶつけて傷つけたり傷ついたりしてるけど、原因は、相手に寄り添えていないことだよね」と指摘してきた。
「いろんな出来事を毎回聞かされるけど、話としては面白いけど、結果、いつも、言う必要のあることを言わずに帰ってきてるからややこしくなるよね」
「言いたくないとか言って、逃げてるけど、言いたくないって言うのは、個人的な感情でしかなくて、言う必要のないことというのとは、違うんだよ」
「言う必要のないことって、道理に乗っ取っているから、言わなくていいことなんだよ」
「常識とかは、住んでる世界で違うけど、その世界の中には道理があって、そこから話せば、感情的にもならないし、分かり合えないこともないと思うよ。お互い見ているものや視野の広さが違うのに同じことを話していると思ってる2人がいるからややこしくなる」
「視野の広い人が、視野の狭い人に寄り添ってみるとその人の世界が見えてくるから、なぜ、そう言っているのか、なぜ、そのような行動をするのか理解できるから、ものの言い方が変わるよね」
ファイティングポーズって、昭和の人の特質なのかなぁと言って息子先生は笑ってた。
相手との向き合い方やものの教え方って、時代とともに育まれるものなのだろうか。
一概には言えないが、少なからず社会の流れや風潮に影響されつつ人間は生きているはずだ。
結構ありえないことが、どさくさに紛れて許されてきたのも昭和の時代だ。
バブルで浮かれたのも事実だ。
何を食べても大丈夫なのも昭和世代だ。(個人差あり)
平成になり、住環境も当たり前に整い、賞味期限やら消費期限で守られているから、腐ったものを匂いで嗅ぎ分ける必要もなくなり、日本に限って言えば、食べるものは豊富にあり、日本ほど、いろんな食べ物が沢山ある国はないと思う。(安全性は、不確かだが)
令和になり、未知の世界に突入して、除菌と騒がれて、生まれた時からそんな世界で育っていくのが令和世代だ。
『あたりまえ』は、
時代によって違うのだ。
その時代が、育むものは、過ぎてみなければわからないのだろうか。
昭和という激動の時代に生まれ育った者たちが、越えなければいけない線がある。
だから、私は、平成の息子に鍛えられているのだ。
そして平成の息子もまた、令和の子供たちに鍛えられるのだろうか。
見えない線を越えるために。
そして、話は戻るが、自分の視野でしかものが見えない人を前にして、私は、言われっぱなしになるのだ。
そして、家に着く頃に、何かがおかしいと思うのだ。
私の視野も息子先生に言わせると普通じゃないと言う。
あまりにも普通の枠から超えているから対応に困るらしいが、自分自身は、彼が言うほどおかしいとは思っていない。
たぶん、誰もが自分のことをそう思っているだろうと私は思っている。
そう、こうやって、話の筋がズレていくのが、息子先生は、嫌いらしい。
女の人には多々あり得ることなので、気にしていなかったが、枝分かれして気持ち悪いと言う。
まして、最後に何を話してたかさえもわからないくらいズレて起承転結の結なし会話に怒られる。
まぁ、ほどほどに聞いてくれ〜と心の中で叫んでる。
そして、また、話を戻すと家に着く頃におかしいと気がつくので、そのテンションが上がりきったところで息子先生と顔を合わせる夕飯となるのだ。
彼にとっては、運が悪いとしか言いようがないが、丁寧に付き合ってくれる。
夫の時は、適当に聞き流す人だったのでスッキリはするし、間違いは指摘してくれるのだが、道理の話にはならない。
相手に寄り添うと言う話にもならない。
それでも、学ぶことが多かった。
自分と考え方が違う人の言葉は、面白い。
視野が広い人の話は、なるほどと納得する。
自分の狭さを知ることになるのは、痛快だ笑
そして息子先生は、相手の背景がみえたら、まずは、そこに寄り添い、気持ちを理解すれば、相手と同じテンションで話し合いをすることはないし、ファイティングポーズからの殴り合いになることはなかろうと言う。
コレを言ってやろう
ココは間違ってる
私が正しい
言うことを聞きなさい
声なきジャブが飛んでくる
そんなことを話したいわけではない
どうしたら、うまくいくのか話し合いたいだけなのに
あ!忙しかったんだね。
そんな中、時間を作ってくれてありがとう
あなたは、そう思うのね
と思ってみても
でも、弾丸で言葉が飛んでくる
圧力で押される
押されるから逃げようとする
逃げきれず
そうすると、同じ力で返そうとする自分がいた
それしか方法がないと思っていた
逃げるか
戦うか
昭和だなぁって思った。
逃げる必要も戦う必要もない時代になったんだよ。
今、私は、道理を見つけようとしている
ワタシノルールではなく
『そもそも、こうだよね』
ってところに2人で着地したいんだって
気がついちゃった。
笑いあいたい
ただそれだけなのにね。
昭和の線を越えるため、今日も私はジャンプする。