『日本哲学入門』(藤田正勝 2024)の日本人の自然観を読みながら、約50年前に福岡正信さんから著書に「一木一草の心」とサインをいただいたことの意味を改めて考えました。
現時点ではありますが、『一木一草の心とは「自然(田畑)に存在するすべてのものの内に秘めているものを感じ取り、それらと「わたし」が一体となること』と解釈しています。
「一木一草」とは
そこにあるすべてのもののこと。また、きわめてわずかなもののたとえ(新明解四字熟語辞典 第2版 三省堂 2013)。
福岡正信さんの「自然観」
「専門の農学者や科学者は、自然がわかると思っている。あるいはそういう立場に立っている。自然がわかると思っているから、自然を研究していくんだ、自然を利用できるんだ、と確信してしまっている。
しかし、哲学的に、宗教的に見た場合には、人間は自然を知ることができない、というのが真実であろうと思うのです。(中略)
この”自然を知っているのではない”ということを知ることが、自然に接近する第一歩である、自然を知っていると思った時には、自然から遠ざかったものになってしまう」(福岡正信(1975)『自然農法 わら一本の革命』42-43ページ)
福岡さんが感じている「自然」は、外から観察され、分析される対象ではなく、人と山川草木とが一体となった中からの状態であったと思います。
自然科学の対象となる以前の明治時代以前の日本人が抱いていた「自然」の捉え方と共通するものだったのでしょう。
このことは、現代の科学技術を否定するのではなく、地球上のすべての生きものが40億年の歴史を持ち、人間もその歴史を共有する生きものの一つであること認識した世界観(自然観)を考えることにつながると思います(中村桂子 2024)。
「一木一草の心」はどのように感じることができるのか
『荘子』秋水編に「魚の楽しみ」をめぐる恵子と荘子の論争があります。
荘子が豪水のほとりで泳いでいる魚をみて「魚が楽しんでいる」と言ったことに、恵子が「魚でもないのに、どうして魚の楽しみがわかるのか」と言ったことに始まります。
中島(2022)は、「魚の楽しみ」の経験が示しているのは「わたし」と魚が豪水において、ある近さ(近傍)の関係に入ったこと、「わたし」が泳ぐ魚とともに「魚の楽しみ」を感じてしまう1つのこの世界に属してしまったという「秘密」である、と指摘しています。
「一木一草の心」を感じることも、荘子が「魚の楽しみ」を感じたように、「草木(自然)」と「わたし」とが分け隔てのない一体となったときに、感じられるのだとおもいます。
たとえば畑に立ったとき、畑や作物の様子から、いま、ここでしなければならないことを感じとり、予定していた作業とは異なることに没頭することがあります。
このようなとき、「一木一草の心」を感じていたのではと思います。
百姓(農業者)の喜び(楽しみ)
福岡さんは、「人間の目標に近い職業として農業がいいっていうのは、一番、自然にあって、自然の中にいる」(福岡 前出150ページ)とし、
「この秋は雨か嵐かしらねども 今日のつとめの田草取るなり」(二宮尊徳)【秋に大雨や台風で田畑に大きな被害があるかどうかは分からないが、目の前のやるべきことをしっかりやっておこう。結果はどうであれ、今の自分にできる精一杯の努力をしよう】
を挙げ、百姓の本当の気持ちをあらわしているとしています。
「ただ自然の営みに応じて、作物とともに生活していくところに喜びがある」とも述べています(福岡 前出150ページ)。
農業には「自然と向き合い、一体となる行為」であることが、基本にあると思います。
※このことについては、今後も検討していきたいと考えています。