複数の言語で表現することのメリット
分かったつもり?
自分が物事を本当に理解しているかどうかを確かめるには、他の言語で説明してみるとよい。特に文法や構造が全く異なる言語を使うと有効である。
これは、私の発見ではなく、仏教を英語で理解する活動をなさっている 大來尚順師(『英語でブッダ』の著者)の話を聞いていて感じたことである。
私なりに解釈するとこうなる。
釈尊の伝記(広義の意味)には多くのエピソードがちりばめられている。日本語で書かれたものだけを読んで分かったつもりになってはいけない。漢訳の仏典を読み下そうとして、「あれ、語順違うのでは?」「これは音写ではないか。漢字に意味はないはずだ」とか、パーリ仏典を読んで「この格だと意味が異なるのではないか」、サンスクリット文献を読んでいると「仏伝にも類似の伝承がある」とか、異なる言語で表現されたものを読むだけでも多くの発見がある。
(公財)仏教伝道協会発行の『仏教聖典』は実に46言語に訳されている(無料でダウンロードできるhttps://bdk-seiten.com/scripture-download.php)からマルチリンガルの人は比較してみると理解が深まるだろう。
同じなの?日本語原文と英訳文
昨年来、宗門内で話題(真宗の外では無関心)の教義問題は、専門とされている勧学・司教の和上方が解決すべきことであって、私のような一ヒラ門徒が生半可な知識で口を出すことではないから触れないでいた。
昨日、たまたま宗派公式サイトに公開されている英訳バージョンを見ていたら、どうも日本語バージョン(原文)と意味が異なるように見える。
以下に該当の英訳部分を示す。(https://www.hongwanji.or.jp/message/)
Namo Amida Butsu.
“Entrust yourself to me. I will liberate you just as you are.” This is the calling voice of Amida.
My blind passions are embraced in the Buddha’s awakening,
So the Buddha calls to me “I will liberate you just as you are.”
Gratefully responding to the Buddha’s call,
I find that I am already on the path that leads to the Pure Land.
And the Nembutsu flows freely from my thankful heart.
It is due to the guidance of Shinran Shonin
and successive spiritual leaders
who have transmitted the teaching to us today.
Living with the Dharma as my guide
Softens my rigid heart and mind.
Gratitude for the gift of life I have received
Frees me from becoming lost in greed and anger,
And allows me to share a warm smile and speak gentle words.
Sharing in the joy and sadness of others,
I shall strive to live each day to its fullest.
(1)3行目、議論の一つともなっている「本来一つゆえ」に相当する表現はどこへ行ったのだろう。
(2)14行目と15行目、freesとallowsの主語をみると、「感謝して」よりも主体(agent)がはっきりする。
母語というものは表現に文法上の問題が少々存在しても、ヒューリスティックに理解してしまうので違和感を感じにくい。だからこそ、文章を一度構造の異なる他言語で表現することによって多角的に意味を考えることが重要となる。