精神科医の宮地尚子氏のエッセイ集『傷を愛せるか 増補新版』(ちくま文庫、2022年)を読んでいたら、哲学者の鷲田清一氏の『「待つ」ということ』が引用されていた。
その《名宛人不明》が、映画『春原さんのうた』(杉田協士脚本・監督、2022年)にまつわる短歌を想起させた。
「だれかが自分のために祈ってくれるということ」と題された短いエッセイは、宮地氏が『バリの中心都市、デンバザールの寺院で祈りを捧げてもらった』エピソードで、寺院ではなく『たまたまその日は午後から休館日』だった『隣り合わせの有名な博物館』を訪れたところから始まる。
彼女は彼の申し出を無視して『隣の有名な寺院を見に行くことにした』。
映画は、主人公・沙知が春原さんへの喪失感から立ち直っていく過程を描いているが、沙知は特に自分から行動を起こすわけではなく、叔父・叔母や周囲の人たちに寄り添われて喪失感を癒していく。
沙知はつまり、宮地氏の云う『周囲の人びととのつながり』によって『忘れていた力を思い出し、自分をもう一度信じてみ』ようと思えるようになった。
宮地氏は言う。
私は映画の感想に『「誰かをさりげなく気遣う/誰かにさりげなく気遣われる」「誰かを案じて寄り添う/寄り添われる」という人の温もりの大切さ』、『我々は「同じ空間で誰かと想いを共有する」ことによって誰かに生かされているし、(自分では気づかないけれど、きっと)誰かを生かしているのではないだろうか』と書いた。
自分は誰かの幸せを祈るだけの存在ではない。
色々あった2022年を何とか越せそうなのは、きっと誰かから祈られているからでもあるはずだ。
感謝しつつ小晦日を迎える。