だれかが自分のために祈ってくれるということ~宮地尚子著『傷を愛せるか 増補新版』~

精神科医の宮地尚子氏のエッセイ集『傷を愛せるか 増補新版』(ちくま文庫、2022年)を読んでいたら、哲学者の鷲田清一氏の『「待つ」ということ』が引用されていた。

そんな閉鎖から、「祈り」へと、たとえそれが「《名宛人不明》の付箋」がついているものであるにしても、おのれをふたたび開いてゆくことは、どのようにして可能になるのだろう

鷲田清一『「待つ」ということ』

その《名宛人不明》が、映画『春原さんのうた』(杉田協士脚本・監督、2022年)にまつわる短歌を想起させた。

転居先不明の判を見つめつつ春原さんの吹くリコーダー

東直子『春原さんのリコーダー』(ちくま文庫)

「だれかが自分のために祈ってくれるということ」と題された短いエッセイは、宮地氏が『バリの中心都市、デンバザールの寺院で祈りを捧げてもらった』エピソードで、寺院ではなく『たまたまその日は午後から休館日』だった『隣り合わせの有名な博物館』を訪れたところから始まる。

手持ちぶさたのわたしに、博物館のガイドをしているという若い男性が、小遣い稼ぎを考えてか、街の案内をしようと英語で話しかけてきた。バリではよくあることだ。

彼女は彼の申し出を無視して『隣の有名な寺院を見に行くことにした』。

彼も一緒に来て、寺院に参詣するときにつける帯をわたしに手渡してくれた。

寺院のメインの塔の前で、彼は時間をかけ、正式なお祈りの手順をきちんと踏んで、わたしのために丁寧に祈禱きとうしてくれた。

だれかが自分のために祈ってくれるということがどれほど心を動かすものなのかを、わたしはそのとき初めて知った。(略)頼んだわけでもお金を払うわけでもないのに、純粋に心からだれかに自分の幸せを願ってもらうということ。その事実と時間がどれほど「有難い」ことか、そして勇気づけられることか、そのとき気づかされた。

トラウマを負った被害者が回復し、自立した生活を取り戻していく際に、「エンパワメント」が重要であるということはよく知られている。「エンパワメント」とは、その人が本来もっている力を思い出し、よみがえらせ、発揮することであって、だれかが外から力を与えることではない。けれども忘れていた力を思い出し、自分をもう一度信じてみるためには、周囲の人びととのつながりが欠かせない。(略)自分の幸せを祈ってくれる「だれか」がかならず必要である。

映画は、主人公・沙知が春原さんへの喪失感から立ち直っていく過程を描いているが、沙知は特に自分から行動を起こすわけではなく、叔父・叔母や周囲の人たちに寄り添われて喪失感を癒していく。
沙知はつまり、宮地氏の云う『周囲の人びととのつながり』によって『忘れていた力を思い出し、自分をもう一度信じてみ』ようと思えるようになった。
宮地氏は言う。

喪失を認め、受け入れることは、新たな生活に向かうために必要だが、けっしてたやすくはない。けれども、幸せを心から祈ってくれる「だれか」がいれば、被害者自身も幸せになりたいと願いつづける勇気、なれるかもしれないという希望を取り戻すことができる。

私は映画の感想に『「誰かをさりげなく気遣う/誰かにさりげなく気遣われる」「誰かを案じて寄り添う/寄り添われる」という人の温もりの大切さ』、『我々は「同じ空間で誰かと想いを共有する」ことによって誰かに生かされているし、(自分では気づかないけれど、きっと)誰かを生かしているのではないだろうか』と書いた。

自分は誰かの幸せを祈るだけの存在ではない。
色々あった2022年を何とか越せそうなのは、きっと誰かから祈られているからでもあるはずだ。
感謝しつつ小晦日こつごもりを迎える。


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