“芸人に教養は必要なのか”問題??

文春オンライン2021年1月27日配信の『「やっぱり0から生み出す人がカッコいい」 松本人志ツイートで浮かぶ“芸人に教養は必要なのか”問題』という、近藤正高氏の寄稿を読んだ。

記事では、2021年1月4日に、漫才コンビ・ダウンタウンの松本人志氏が投稿したツイート文(以下、当該ツイート文)

物知りな人は物知りな人の話を記憶している人。
やっぱり0から生み出す人がカッコいいなぁ~。

をフックにして、「お笑い芸人が物知りである必要性」について、過去から現在までの名実ともに優れた芸人を何人か挙げ、「実力ある芸人は、努力して知識を得ている」ことを紹介している。


本稿について

私はSNSを使わないので、当該ツイート文についてのいきさつは一切知らないし、前後の文脈もわからない。

なので、本稿は、その文脈を無視して、当該ツイート文だけで考えた私の憶測である


「物知りな人」

近藤氏の記事から…

「0から生み出しているように見える人も、実際には何かしらの知識や経験をもとにしている」といった意味の反論も目立った

上記リプライが当該ツイート文に対して直接の、また真面目な「反論」だとすると、的外れに思える(「補足」ではないのか?)。
「0から生み出す人がカッコいい」というキャッチーな言葉に脊髄反射したか、上段の文章を軽視したか。

下段冒頭の「やっぱり」が指すのは上段の「物知りな人」であり、上段の否定として「0から生み出す人」が登場する。

「物知りな人は物知りな人の話を記憶している人」

自己再帰したような文章だが、最初の「物知りな人」と「話をしている物知りな人」は区別され、後者の「物知り」は肯定される。
否定されているのは前者のみで、上段の文章は「物知り」を全否定するものではない。

上段を括弧で補足すると、
「物知り(と自惚れている)人は(本物の)物知りな人の話(たことを、ただ)記憶している(だけの)人」
あるいは
(世間から)物知り(と思われている)人は(実は、本物の)物知りな人の話(たことを、ただ)記憶して(ひけらかして)いる(だけの)人」
となるのではないだろうか。


「何かしらの知識や経験をもとにしている」のが前提

それを踏まえて当該ツイート文を換言してみる。

知識を得ることは必要で、重要なことです。でも、知識を得ることは「目的」ではありません。最終目的は「知識を得てどうするか」です。
知識を得るのには、ある目的や理由があるのです。その目的がなくて知識をただ得るだけだったら、コピペで全然かまいません。
(※太字部、原文では傍点)

これは私の言葉ではなく、橋本治氏の著書『負けない力』(朝日文庫、2018年)からの引用である。

当該ツイート文上段の「(本物の)物知りな人の話を記憶している」「物知りな人」は「目的がない、あるいは、知識を得ること自体が目的になってしまったが故に、知識をコピペで得るだけの人」。
わかりやすくたとえると、「意識高い系(笑)」「ビジネス書を読み漁るだけの人」

「本物の物知りな人」は、「ある目的や理由があって知識を得る人」であり、「知識を得てどうするかを考える人」でもある。

そして、下段の「0から生み出す人」は、最終的に「得た知識」を活用して目的を達成した「本物の物知りな人」を指す。

だから、「0から生み出しているように見える人も、実際には何かしらの知識や経験をもとにしている」というのは当該ツイート文の前提であり、従ってリプライは「反論」に当たらない。

「何かしらの知識や経験を活用して目的を達成した人」を、松本氏は「やっぱり」「カッコいい」と言っているのである。


記事に戻る

「お笑い芸人が物知りである必要はないのか」

ちなみに、記事中で近藤氏が例に挙げた芸人たちは、「人を笑わせたい」という理由があって知識を得、得た知識で「人を笑わせる」目的を達成している。

そういう芸人を、松本氏は「カッコいい」と言っている。

「新しい定義」は、絶えず「あえて設けた定義を裏切ること」(※1)を目的にし、その目的ために知識と経験を得るための努力を続けることによって、最終的に辿り着くものではないだろうか。

例に挙げられているのは、そうして「新しい定義」に辿り着いた芸人たちだ。

※1 フジテレビ『ワイドナショー』2020年12月27日放送分、松本氏による「漫才の定義」に関する発言(近藤氏の記事より引用・改変)


(追記)
後日、もうちょっとだけ考えてみた。


おまけ

と解釈してみたが、松本氏自身は、「0から生み出す人」を「比喩ではなく、そのままの意味」と考えていてもおかしくない。

なぜなら、松本氏はこの発言どおり「知識もなく、0から生み出せる人」そのものだからだ。

いとうせいこう著『今夜、笑いの数を数えましょう』(講談社、2019年)で、「ダウンタウンDX」などを手掛ける放送作家・倉本美津留氏がこう発言している。

倉本 (略) まったく無名な二人を連れてきた。それがダウンタウンだったんです。その時に、伝説のネタになっているけれど、誘拐のネタをやったのを見て「ヤッバいわ、こいつら!」と思った。その時にいちばん衝撃だったのが言葉。ラジカル(引用者註:ラジカル・ガジベリビンバ・システム)とかモンティ・パイソンとかスネークマンショーとか、その辺のシュールで不条理な笑いは絶対に標準語というか東京弁のイメージが僕にはずっとあった。(略)でも、その新人の二人は、完全にベッタベタの大阪弁でそういう世界をやりだした。

つまり、ダウンタウンは従来までの「シュールで不条理な笑いは東京弁」という固定観念を覆した、と同時に「シュールで不条理な漫才」を「0から生み出した」。
しかも、彼らは「シュールで不条理な笑い」そのものを知らなかった。

倉本 ダウンタウンはラジカルとかモンティ・パイソンとか全然知らなくて、まったく影響を受けてないんですよ。まあ、松本の方は天然シュールレアリストみたいなところがあるから、勝手にそうなっていたんですよね。どちらかというと、吉本新喜劇大好き少年ですから。でも、やっぱり何かしら違和感があって「そうじゃない笑いがある」という感覚が自分の中にずっとくすぶってたんでしょうね。

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