「書きたいけど書くことがない」或いは「YouTuberの彼」。そして「美女と野獣」
noteの「#読書の秋2020」というコンテストがあった。
その課題図書に田中泰延著『読みたいことを、書けばいい。人生が変わるシンプルな文章術』(ダイアモンド社、2019年)が挙がっていた。
この本については、以前、現代ビジネスに『SNSに夢を抱く人たちが陥る「書きたいけど、書くことがない」問題』(2019年8月2日付記事)という、著者のインタビュー掲載されていた。
「書きたいけど、書くことがない」?
それにしても、『書きたいけど、書くことがない』である。
「書きたいけど、書けない」というなら、わかる。
「考えがまとまっていない」「どう書いていいのかわからない」など、テクニカルな問題もあるだろうし、「書くための時間が捻出できない」などといった物理的な事情もあるだろう。
いずれにせよ、これらには「書くこと(テーマ)がある」ということが前提になっている。
つまり、本来は「書くことがある」から、「書きたい」という欲求や衝動が生まれるのである。
しかし、「書きたいけど書くことがない」となると、その「書きたい」という欲求や衝動は「書くこと(テーマ)」ではなく、別のところから要請されることになる。
それについて、先の記事で著者がこう答えている。
田中:「書きたい」と思っている人が、今の世の中、とにかく多いんです。ライターゼミの講師をすると、それはもう、大勢集まってきてくれます。ただ、その中に、「書きたいけど、書くことがない」という人もけっこういるんですね。
書きたい人が増えているのは、ブログやTwitter、noteなど、書く環境が整っていることも要因の一つですが、もう一つは、「書いて褒められる自分になりたいから」です。ライターやエッセイスト、インフルエンサー、芥川賞作家……になりたいから、書きたい。「やりたいこと」と「なりたい自分」を混同している人が多い。書くことは、(中略)自分にもできるかもしれないと思われがちなのでしょう。
(※太字、引用者)
『そういう人の夢と希望をぶち壊すために、僕はこの本を書きました(笑)』と著者は語っている。
私は読んでいないが、「#読書の秋2020」で様々な人が、各々感想だのを書くのだろうから、この『書いて褒められる自分になりたいから』という著者の考えについても、色々考察されるに違いない。
「YouTuberの彼」
話は変わるが、先日『ジャズ喫茶 ベイシー Swiftyの譚詩』(星野哲也監督、2020年)という映画を観た。
「ベイシー」というジャズ喫茶は、映画のパンフレットでこう紹介されている。
昭和初期、ジャズの普及とともに始まった"ジャズ喫茶"。この日本独自のレコード鑑賞文化は現在も全国に存在するが、「ベイシー」は岩手県一関市に店を構えて50年。いつしか世界一のサウンドが聴ける聖地となり、マスターの菅原正二が生み出す"音"を求め、日本のみならず世界中からジャズファン・オーディオマニアが連日訪れる。
映画はこのお店とマスターである菅原正二氏のドキュメンタリである。
公開から2ヶ月以上も各地でロングランしているほどの人気なので、是非観てほしい。
この映画の中で、菅原氏がかつて「有名なジャズ評論家である、植草甚一氏を電車(総武線)の車内で見かけ、声を掛けた」というエピソードが語られる。以来、二人は師弟関係となり、それは植草氏が亡くなるまで続いたという。
このシーンを観ながら、私は「YouTuberの彼」を思い出していた。
私自身ネット動画を見る習慣がないので、彼のことは知らない。
報道を見る限り、諸所で迷惑行為を繰り返した挙句、ついに逮捕までされてしまった。彼は、(彼の中での)「有名人」に直接会いに行って迷惑行為を働いたこともあるという。
彼は、本人に直接会いに行く勇気や行動力を持っていたにも関わらず、逮捕されてしまうまで、ついに「一生の関係を築ける人」と出会わなかった。
いや、「『そういう人に会いに行こう』という発想に至らなかった」という方が正しいかもしれない。
何故なのか?
映画を観ながら考えていた。
(2021/03/26 追記)
「『そういう人に会いに行こう』という発想に至らなかった」というのは間違っているかもしれない。
以下には、彼を含め「書きたいのに、書くことがない」人たちは、その行為によって、「特定の、それも誰もが認める秀でた人、に見出されたい」と思っているのではないか、という私の論考が書いてある。
それからすると、彼は実際に会いに行くことによって、それら対象者に「友達になろう」とか「一緒に何かやろう」などと言われ、自身の存在価値を認めてもらい、それによって、(「自分にはあるはず」と思い込んでいる)自身の内なる才能をも認めて欲しかったのではないか、とは考えられないだろうか(でも誰も認めてくれないので、「認めてもらおう」という気持ちが増して、さらに行為がエスカレートし、そうなると増々人々が敬遠する、という悪循環を辿る)。
(追記おわり)
(2022/03/30 追記)
上記追記から1年が経過したが、相変わらず「YouTuber(だった)彼」は色々なことにチャレンジし、その都度それなりの評価(物議?)を得ているようだが、彼は満足せず、次々と新たなチャレンジに移ってしまう。
最終的に自分がどうなれば彼は満足するのだろう?
個人的には彼の行為は「自分探し」なのだと思っている。
「自分探し」というのは21世紀になるまでに廃れてしまったが、彼が「21世紀型」として復活させてしまった。
「20世紀型」はあくまでも個人に帰結したものであったが、「21世紀型」は全世界に帰結する。
前者は「自分探し」を成し遂げようと諦めようと自分が納得すればそれで良く、他人の評価は不要だった。
対して後者は、彼に注目する世界中(理論上)の誰もが彼を評価する。
従って、彼に注目する世界中(理論上)の人々が納得しないと彼の「自分探し」は終われないのではないか?
つまり、彼の「自分探し」はもう「自分を探すこと」という個人的行為ではなくなっていて、「彼に注目する世界中(理論上)の人が納得する<自分(≠本人が探そうとしている自分)>を探すこと」になっているのではないか?
そうなると、彼の「自分探し」は終わらない……のではなく、「終われない」のではないか?
(追記おわり)
こういう投稿を繰り返す要因として、「承認欲求」という言葉がさかんに使われる。
「YouTuberの彼」には、相当のフォロワーもいると報道されており、一般的な市井のYouTuberよりも(少なくとも数の上では)遥かに承認されていたはずで、相応の広告収入も得ていたであろう。
つまり、それは冒頭の田中氏のインタビューにある、『褒められる自分になりたいから』を満たしている(実際に「褒められる」かは別として、YouTubeのシステム上は「褒められた」ことになる)。
しかし、彼はそれでは満足せず、行動をエスカレートさせ、逮捕されるに至ってしまった。
何故、彼は満足しなかったのか?
まだ「承認欲求」まで到達していないのではないか?
「承認欲求」は、広く知られているとおり「マズローの欲求5段階(自己実現理論)」の4番目の層である。つまり、現在のインターネット環境が使える日本人であれば、下位3層は満たしていると考えられていることになる。
ちなみに、一つ下の3層目「社会的欲求と愛の欲求」は、Wikipediaによると以下のように説明される。
自分が社会に必要とされている、果たせる社会的役割があるという感覚。情緒的な人間関係についてや、他者に受け入れられている、どこかに所属しているという感覚。
もしかすると、我々はまだ、この「社会的欲求と愛の欲求」という3層目に留まっているのではないか?
そしてこの欲求に対するアプローチが、「書きたいけど、書くことがない」という不可思議な状況を生み出し、「YouTuberの彼」が逮捕されるに至った「鍵」となるのではないか?
「社会的欲求と愛の欲求」へのアプローチ
かつて、「自分の人生は自分で見つけるもの」という風潮が強かった。
かつての芸人は、本人が師匠を選んでいた。
最終的に弟子にするかは師匠が決めることだが、それができるのも、「この人の弟子になりたい。師として仰ぎたい」という気持ちを抱いた本人が、弟子入り志願の直談判をしたからである。
アイドルやバンドならオーディション、作家なら新人文学賞へ応募したり持ち込みしたりして、事務所やレコード会社・出版社(の選考者)に選んでもらう。
そのためには、自らアプローチしなくては話が始まらないのである。
「自信がないから」といって、アプローチしないでウジウジしていては、プロとしてデビューできないのである。
つまり、かつては「自分が社会に必要とされている、果たせる社会的役割があるという感覚」を自ら社会へ問う風潮が強かった。
翻って現在。
かつてのような風潮ももちろん残っている。
しかし、それよりも、芸人志望者は師匠に弟子入りせず事務所の養成所に入り、アイドル志望者や「YouTuberの彼」のように有名になりたいと嘯く人はSNSや動画サイトにひたすら投稿を繰り返し、作家志望者はネット上に「連載小説」なるものを書きなぐる、という風潮が強くなっている気がする。
共通しているのは、「誰かに見つけてもらう」という願望だ。
つまり、欲求を満たすためのアプローチとして、かつては「自分から社会へ働きかけていた」のが、現在は「社会から自分へ働きかけてもらいたい(と希望する)」ようになったのではないだろうか。
「自分から社会へ働きかけ」た場合、社会から拒絶(弟子入りを断られる、オーディションに落ちる、原稿を突き返される、など)されてしまう恐怖が付きまとう。
その点、「社会から働きかけ」てもらえば、「自分が社会に必要とされている、果たせる社会的役割があるという感覚」が向こうから提供されるのだ。
自分は"誰に"働きかけてもらいたいのか?
しかし、これだけの説明では、個人的に納得できない。
「書きたいこと」について、冒頭のインタビューで田中氏は、こう語っている。
田中:自分の内面を書きたがる人はいますが、たいがい、つまらない。つまらない人間とは、「自分の内面を語る人」なんですよ。有名人は別ですが、他人はそれほどあなたに興味がありません。
このインタビューの性格上、「他人」というのは「インターネット上の見ず知らずの不特定多数の人」を想定していると考えられる。
それを含め、この田中氏の発言には同意できる。
きっと、『自分の内面を語る人』だって同意するだろう。
では何故、他人には興味がないとわかっていながら『自分の内面を語る』のか、「書くことがないのに、書きたい」のか、YouTuberとして「有名」になったのにさらに行動をエスカレートさせてしまったのか。
その人たちは、「インターネット上の見ず知らず」ではあるが、「不特定多数」の中にいる「特定の誰か」を想定しているのではないか。
「インターネット上の見ず知らず」は漠然とし過ぎていて、マズローがいう「社会的欲求と愛の欲求」にある「どこかに所属しているという感覚」が掴みづらい、だから「所属」を実感できる「特定の誰か」を求めている、とは考えられないだろうか。
現代版「美女と野獣」
ここまで考えてきて、ふと「美女と野獣」という物語を思い出した。
「醜い野獣が、野獣自身気が付かない内面を美女に認められ、愛されることにより、野獣から(若く美しい)王子に戻る」という物語である。
「野獣」は見た目はもちろんだが、野獣に変えられてしまった経緯から、内面的にも魅力がないと信じ込んでいる。
王子の巻き添えになって魔法に掛けられてしまった召使は、文句も言わず、献身的に野獣になった王子に尽くしてくれる。しかし、王子は満足しない。
そんな王子(野獣)の内面の魅力を見いだし、愛してくれる「美女」。
この物語の性別を抜きにして考えると、先述の「特定の誰か」は、記号としての「美女」を指していると考えられないだろうか。
つまり、外見はともかく内面的に「自分には魅力がない」と思っている、もしくは「自分の魅力を探り当てられない」人が、自身では気づかなかった魅力を見いだしてくれて、それを認め/愛してくれる「美女」を求めているのではないだろうか(「気づいてないかもしれないけど、あなたの文章や動画には、こんな素敵な魅力があるじゃない!」)
「献身的に尽くしてくれる大勢の召使」(= フォロワー)の賞賛だけでは満足できない。
「美女」にしてもそんじょそこらの美女じゃなく、「街一番の美貌の持ち主」という「誰もが認める秀でた人」でなければダメだ。
そんな「美女」に認められ愛された「野獣」は、「若く美しい王子」になり、国民から尊敬されるはずだ。めでたしめでたし…
そんなわけで、野獣が使いたくもないナイフとフォークで食事をするように、苦手なダンスで美女をエスコートするように、「書くこともないのに書か」なければならないし、「『内面』や『おもしろいこと』を披露」しなければならない。
そしてそれは、「召使」ではなく、一人の特別な「美女」に見いだされるまで、永遠に続くのである。
おわりに
本稿は、前述した映画『ベイシー』を観ながら、「YouTuberの彼」を思い出したことが発端となっている。
「菅原氏における植草氏のような存在の人を見つけていれば、明らかに違った人生になっていただろうに」と、余計なお世話ながらに思ったのだ。
引用させていただいた田中氏のインタビュー記事は配信当時に読んでいて、「書きたいのに、書くことがない」という言葉がずっと引っ掛かっていた。
田中氏の『書いて褒められる自分になりたいから』という解釈は、ずいぶん前から言い古されたレトリックで、(このインタビューでは出てこないが)その原因を安易に「承認欲求」に求めるものも多いのである。
この解釈は間違いじゃないし実感としてそうなのだろうが、「ネット上に文章を書く」ための指南書の著者の発言としては、正直平凡過ぎないか、と。
そこで、「YouTuberの彼」を絡めて違う解釈ができないか、と思って書き始めたら、我々は「承認欲求」に未だ達せず、それ以前の「社会的欲求と愛の欲求」を満たしてくれる「美女」を求める「野獣」である、という結論になってしまった…
それでいいのである。
だって、「自分の読みたい」ように書いてみただけなのだから。