再び「書きたいけど、書くことがない」。「おもしろいって何?」或いは「趣味って何?」
以前、『「書きたいけど書くことがない」或いは「YouTuberの彼」。そして「美女と野獣」』という、長いタイトルの拙稿を書いた。
それで、その後も、ぼんやりと「書きたいけど書くことがない」ということを考え続けていたところ、ダイアモンド・オンラインの『「書くのがしんどい」理由は5つ、SNS時代に学びたい軽やかな文章術』(2020年11月16日配信)という記事を見つけた。
これは、竹村俊助著『書くのがしんどい』(PHP研究所、2020年)の要約記事なのだが、それによると……
「書くことがない」と悩む人は、「自分のこと」を書こうとしているという共通点がある。
多くの人は「自分の中から」文章を生み出そうとするが、この「生み出そう」というメンタルがそもそも間違っている。一部の才能ある作家は別として、普通の人の中には何もない。
自分の中に「何か」がなくても、他人のことやまわりのことについて発信することはできる。
そして、『自分が見つけたおもしろいことを自分のフィルターを通して伝えていってみよう』と指南する。
しかし、簡単に自分で「おもしろいこと」が見つけられたら、そもそも「書くことがない」という悩みは生まれてこないのではないか?
「おもしろい」って何?
では、「おもしろいこと」とは、どういうことなのか?
とりあえず、『goo辞書』で「面白い(おもしろい)」を引いてみる(用例略)。
1 興味をそそられて、心が引かれるさま。興味深い。
2 つい笑いたくなるさま。こっけいだ。
3 心が晴れ晴れするさま。快く楽しい。
4 一風変わっている。普通と違っていてめずらしい
5 (多く、打消しの語を伴って用いる)思ったとおりである。好ましい。
6 風流だ。趣が深い。
これを読む限り、確かに、どの「おもしろい」の意味を取っても、「書くこと」ができそうである。
だから、『書くことがしんどい』を始め、幾多の指南書やnoteの記事に書かれていることは間違っていないと考えられる。
しかし、何故か「書くことがない」のである。
「趣味」って何?
そんなことを考えていたら、たまたま「telling,」というサイトの記事で、『「趣味」を聞かれて答えづらいと感じた人は半数以上!休みの日、充実させなきゃだめですか?』(2020年10月28日配信)というのを見つけた。
久々に会った同僚と休みの日の話になり「そういえば、趣味って何?」と聞かれたときは少し言葉に詰まってしまった。(略)いい答えがパッと思い浮かばなかったからだ。好きなこと、好きなものはたくさんあるはずなのに。
これをきっかけに、読者に「趣味に関するアンケート」を募ったところ、以下の結果となったらしい。
趣味を聞かれて、困った、もしくは答えづらいと感じた経験がある人は全体の半分にものぼり、女性の6割弱、男性の4割が「ある」と回答。(「よくある」「ときどきある」の合計)
何故「答えづらい」のか?
その理由として最も多かったのは「好きなことはあるが、「趣味」と言っていいのか分からないから」というもの
(※太字、引用者)
「分からない」なら検索したり辞書を引いたりすればいいのに、と思う。
ちなみに、簡単に検索できる『goo辞書』で「趣味」を引くと、3つの意味が出てくる。
1 仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄。
2 どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方。好みの傾向。
3 物事のもっている味わい。おもむき。情趣。
「telling,」の記事に当てはまる「趣味」は当然「1」だろうと思っていたら……
同僚や友人はどうなのかと思い、20~30代の男女に聞いてみたところ、
「読書や映画鑑賞は好きだけど『そんなの全員やってることじゃん』と思われそうだから言いたくない」
「趣味=語れるくらいに好きなもの、得意なもの、というイメージ。ハードルが高いので趣味を聞かれるのは苦手」
といった声が聞かれた。
と、「1」と「2」を混同あるいは混合しているような意見が載っている。
つまり、「個人が楽しみとしてしている事柄」という単純なものではなく、加えて「その人の感覚のあり方・好みの傾向」を反映したものが「趣味」と考えられている、ということである。
言われてみれば、「趣味」とはそういうものなのかもしれない。
「その人の感覚のあり方・好みの傾向」があるからこそ、その人個人が「楽しみに」することができるとも考えられる。
しかし、『『そんなの全員やってることじゃん』と思われそうだから』とか、「趣味=語れるくらいに好きなもの、得意なもの、というイメージ」という意見からは、「感覚のあり方・好みの傾向」が「自分基準」ではなく、「他人基準」と捉えている傾向がうかがえる。
「趣味」も「おもしろい」も自分では「わからない」
「他人基準」という考えについて、故・橋本治氏は著書『負けない力』(朝日文庫、2018年)で、こう述べている。
日本人の「自分」は、「自分の中」にではなくて、「自分の外」にあります。
(略)
実際になにかを言って引かれた経験があるわけじゃないけど、「うっかりしたことを言って引かれたらやだな」と思って、あらかじめ「みんなが引かないような"正解"はなんだろう?」と考えて、自主規制をしてしまう。つまり、自分の中に「自分」はいなくて、正解を持った「自分」は「自分の外」にいるのです。だから、自分の意思や考えを言うのでも、まず「どう考えたら、みんなが納得するような、みんなが同じように考える"正解"になるのかな?」と考えてしまう。
(※太字、引用者)
これを裏付けるようなことが、前出「telling,」の記事に書かれている。
面白かったのは、相手によって返答を変えるというスタイルだ。
友人の27歳の女性は、仕事の場では旅行や温泉の話を、同年代の友人同士では海外ドラマやキャンプの話を(略)するという。たとえ始めたばかりの趣味だとしても、会話が盛り上がりそうなテーマを選んで話すらしい。初対面の場において、相手にどう思われたいかというセルフブランディングの意図もあるようだ。
『セルフブランディング』などと尤もらしい横文字を使っているが、実際は、『「うっかりしたことを言って引かれたらやだな」と思って、あらかじめ『みんなが引かないような"正解"はなんだろう?』と考えて、自主規制をして』いるだけではないだろうか。
アンケート結果で最も多かったとされる『好きなことはあるが、「趣味」と言っていいのか分からない』というのも同じで、自分が好きでも、それが『みんなが引かないような"正解"かが分からない』から『答えづらい』のである。
「趣味」という『個人が楽しみとしてしている事柄』でさえも「個人」ではなく「他人」が基準なのだから、「おもしろい」ということについても推して知るべしである。
「書くことがない」と悩む人は、『自分の中に「何か」がなくても、他人のことやまわりのことについて発信することはできる』とアドバイスされても、その前提が「自分が見つけたおもしろいものを書こう」である限り、全く響かない。
「おもしろい」の基準を自分で決めることを放棄して「他人」に委ねてしまっているのだから当然である。
だから、「おもしろいもの」など見つけられない。
と言うか、そもそも見つける気など無いのだろうが。