民主主義? (2022.07.08追記)

何故、選挙に行かなければならないのか?
我々人間はもちろん、地球上のあらゆる動物・植物・生物・自然……それら一つひとつのかけがえのない大切な尊厳を、暴力や武力で踏みにじられないためだ。
言いたいこと、やりたいこと、夢、希望、愛、笑い…………迷い、悩み、失恋、嘆き、悲しみ…………どれ一つとして暴力や武力で抑圧されたくはないし、強要だってされたくないからだ。

2022年7月8日 アンマchan


以前の拙稿に書いたドキュメンタリー映画『屋根の上に吹く風は』(浅田さかえ監督、2021年)の舞台となった学校「|新田《しんでん》サドベリースクール」は、「デモクラティックスクール」である。
「デモクラティック」はもちろん「デモクラシー」、つまり「民主主義」である。
「新田サドベリースクール」は生徒が自由に色々提案ができるが、それが採択されるためには、生徒の「全会一致」が条件になる。
そう聞くと、物事を「多数決」で決めていくのが「民主主義」だと思っている我々現代人には違和感があるが、本来は「全会一致」が基本である。

映画に登場する「がじゅ」と呼ばれる生徒は「色々提案できる自由」が保証されていることについて、『楽だけど難しい』と発言している。

自由でなんでも自分たちで決められるが故に、意見の割れる話し合いで決めていかなければならないことも難しかったところだと思います。長い場合だと、1つの議題で何時間も話し合ってその日のサドベリーの開校時間内に決まらないこともありました。ひとりひとりが平等に決める権利を持っているからこその難しさだったと思います。

映画パンフレットより


民主主義の基本が「全会一致」だとして、とは言え、それで物事を決めていくのは特殊なような気がしてしまうのだが、松村圭一郎著『くらしのアナキズム』(ミシマ社、2021年)によると、現在でも、それが当たり前である少数民族のコミュニティーも存在しているらしい。というか、つい最近まで、日本にもそういう集落が存在していたという。

松村は、人類学者きだみのるの『にっぽん部落』(岩波新書、1967年)に書かれた、南多摩郡恩方村という集落を紹介している。

集落には「親方」や「世話役」と呼ばれる人々がいた。これらの人々は、選挙や話し合いで選出されるわけではなく、「人気」要するに「信用」によって自然決定されていたという。

世話役は、だいたい10軒から16軒くらいの家を世話してまとめていた。(略)世話役に不始末があると、人気がなくなり自然に別の者が世話役に推された。(略)
きだが過ごした集落で世話役をつとめていた貞三さんは、かつて集落の恥をさらすふるまいをして信頼を失った世話役の男性を例にあげてこう語る。

世話役はあくまで世話役らしく振るまわねえじゃあなあ。でなかったら部落は纏[まとま]るもんじゃあねえよ。そして他部落の笑いものにならあ。(『にっぽん部落』47頁)

『くらしのアナキズム』

そして、この部落は「新田サドベリースクール」同様、「全会一致」で物事を決めていく。

いまの「村議会」にあたる「部落議会」では、世話役や親方が議長席に座る。だが、そこでも全会一致が原則だった。きだは、外部からは封建的にみえるこのやり方ほど民主的な理想的議会はないと明言する。
(略)
民主主義の根幹には同意[コンセンサス]があり、それは多数決による勝敗民主主義とは相容れない。

(同上)

『あえて多数決をしない暮らし第一主義』について、前述の貞三さんの言葉を長くなるが引用する。

そらあ、多数決の方が進歩的かも知れねえが部落議会にゃあ向かねえや。多数決つうなあ決戦投票だんべえ。ここいらで決めるのはわが身の損得になる問題が多いんだわ。だから負けた方は論には負けるし銭はふんだくられるし、仲よしも向こうにつくでは、どのくれえ口惜しいか解るめえ。だからその恨みが何時までも忘れられずに残らあ。それじゃあもう部落はしっくり行かなくなるんで部落会じゃあやりたがらねえのよ。部落議会じゃあ、村議会でもそうだが十中七人賛成なら残りの三人は部落のつき合いのため自分の主張をあきらめて賛成するのが昔からの仕来りよ。どうしても少数派が折れねえときにゃあ、決は採らずに少数派の説得をつづけ、説得に成功してから決を採るので、満場一致になっちもうのよ。それに数が少ねえもの。部落が仲間割れしちゃあ少数派は元より多数派も茶飲みに行く家の数がへってうまかあねえもの。(同82頁)

(同上)

この貞三さんの話を読んだ松村は、『「茶飲みに行く家の数がへってうまかあねえもの」。ぼくらはなんのために人とかかわり、社会をつくってきたのか。それはともに楽しく生きるためだ』と『ストンと腑に落ちた』。

とはいえ、これが可能なのは上述したとおり、『だいたい10軒から16軒くらいの家』が一つのまとまりだからで、『それ以上の数になると、まとめるのが難しくなる』と松村も指摘している。

大勢の人々が好き勝手に自分の意見を表明するとどうなるのかは、現代のSNSの状況から一目瞭然で、話がまとまるどころか、発散して元々の問題が何だったのかもわからなくなる。

だからこその「代議制民主主義」「議会制民主主義」であるが、残念ながら日本では、うまく機能しているようには思えない。

日本の現状について、社会学者の宮台真司氏が2021年10月15日付の朝日新聞朝刊のインタビューで、コロナ禍における欧米諸国とこう比較している。

「これは、議会制民主主義の構造に由来する根本問題に関わります。民主主義は『51%の多数派と49%の少数派』でも、多数派の意見で物事を進めます。だから二段構えの構造になります」
「まず議会審議を通じて、納得はしないけど理屈は理解できるという状態をもたらす。次に政治指導者が、理解はしても納得していない市民を前に『あなたたちの理屈とは違ったことをするが信じてほしい』と呼びかける。多数決に伴う少数派の不満は、政治家への信頼で乗り越えるしかないからです。『こいつが言うなら仕方ないから聞いてやろう』と。政治家が国民に対し、『この人たちは敵だ』というかまえでは統治できません。欧州の主要な政治リーダーは、それをわきまえています」
「では日本で、市民と『同じ世界』にいるという感覚が欠かせないと考えている政治家が、どれほどいますか。コロナ禍での政治家の『誠実な』言葉を誰が覚えているか。これは死者数や感染者数から見えてこない根本原因です」

2021年10月15日付朝日新聞朝刊 (2021衆院選)宮台真司インタビュー

政治指導者の『あなたたちの理屈とは違ったことをするが信じてほしい』との呼びかけに応じた反対派が、『こいつが言うなら仕方ないから聞いてやろう』と矛を収める。
それが可能なのは、『政治家への信頼』があってこそである。

これはつまり、前出の「部落議会」と同じ理屈だ。
「人気」「信頼」により自然に選出された「親方」や「世話役」は、「人気」「信頼」を落とさないように努める。
そして、決が割れた場合は、少数派が『こいつが言うなら仕方ないから聞いてやろう』と『自分の主張をあきらめて賛成』に回る。
『どうしても少数派が折れねえときにゃあ、決は採らずに少数派の説得をつづけ、説得に成功してから決を採る』。
それが可能なのも、すべては『こいつが言うなら仕方ないから聞いてやろう』という「信頼」が前提にあるからだ。

日本の政治だけでなく、SNSを始めとするインターネット世界において、『こいつが言うなら仕方ないから聞いてやろう』という「信頼」の概念は存在するだろうか?
政治家が国民を、国民は政治家を、また、政治家どうし、国民どうしが、『この人たちは敵だ』という前提で不毛な論戦を繰り広げ、その結果、あちこちで「分断」が生じているように思えてならないのだが……



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