日記を小説にする~「文学界」2023年3月号の特集「滝口悠生の日常」より~

この"note"という媒体やネット上のブログなどに、日記や小説を投稿している人も多いが、それらは明確に区切られるのだろうか?
日記を基に小説を書く(或いは、日記からアイデアなどを得る)こともあるだろうし、逆に、自身を主人公にした小説風に日記を綴ることもあるだろう。

そんなことを考えたのは、「文学界」(文藝春秋) 2023年3月号の特集「滝口悠生の日常」のひとつとして掲載されていた、作家の滝口悠生氏、写真家の植本一子氏と金川晋吾氏の鼎談を読んだからだ。
『日記を書きたい人が参加する』『「月日」っていう日記専門書店のワークショップ』に参加している3氏の鼎談は、自ずと、日記を書くことが話題になっていて、「日記は小説(或いはエッセイ)になり得るか」という興味深い話がされていた。

「日記」と「小説」違い

小説を書きたいけれど書けないという人の中には、意外と初期段階でつまづいている人がいて、たとえばこの鼎談では、金川氏のように『あったことは書けるけど、なかったことは書けない』という「小説=フィクションの創造」への思い込みに対して、滝口氏はこう答えている。

事実かどうかっていうところでのフィクション性とは別に、書く時のマインドとか、書かれたもののテクスチャーのなかに、なんか事実を裏切るというか、事実を切り離す感じを探しているのかなって僕は思ってるんですけど。日付が付いていればまぁ日記とは呼べるけれど、でもそこで書かれている文章は、日記っていう形式に留める必要はないんですよね。

滝口氏は、日記は『日付があることによってその日の出来事っていう強い枠組みが一応与えられ』て『基本的にはその日あったことを書く』という前提があるとしながらも、『でもその「あった」って何なのかと考えてしまう』と言う。

たとえばその日思い出した別の日のことは、その日の出来事ではないじゃないですか。

日記にはその日の出来事しか書けないのか?

この、ある意味での「時系列の歪み」みたいなものは、たとえば「その日のことを当日ではなく後日書く」という時にも発生する。
毎日日記をつけているという人でも、キチンキチンと当日に書くのは難しいのではないか。簡単にメモしておいて、後日それを日記として書き起こすという人も多いのではないか。
その際、当日から日記に書き起こすまでの期間に起こったことは、「当日の日記」として書いて良いのだろうか?
「当日のその時点」で起こったことではないのだから、「当日の日記」として、それを記載することは「嘘」「フィクション」にならないだろうか?
滝口氏は、こう答える。

でもそれはね、書けますよ。(略)
どう書いてもいいと思うの。日付の制約を強くして、その日以降の時間のことは書かないっていうのもひとつのスタイル、というか日記としてはたぶんそれが標準的な書き方だと思うんだけど。あまり他の日のことを書きすぎちゃうと、そもそも日付をいれることの意味が薄れるし。でも実際は後から書いているんだから、知らないふりをすることもないじゃんと思う。例えば、(略)いいタコがあったので買いました。その日は使わなかったけど、次の日酢の物にしておいしく食べたよ、みたいなことは(その日の)日記にも案外するっと書ける。その日から見れば未来だけど、書いている時から見れば過去だから。
(略)
ただ、気をつけないと日記ぜんたいの統制がとりにくくなるというか、日記とは?みたいなことにはなるかもですよね。

「創造」の範囲と小説世界のリアリティー

ここまでで、日記においても、明らかな「創造フィクション」でなければ、「事実」や「その日だけに起こったこと」に限定して書く必要はないのではないか、ということが見えてきた。
とはいえ、日記と小説の決定的な違いは「事実」と「創造」ではなく、その「創造」が植本氏が言うように『身の回りであったことしか書けない』と範囲が限定されていることにあるのではないか。
しかし、では小説は本当に範囲が限定されていないのか?
それに対し、滝口氏はこう答える。

もちろん日記と小説では違うし、小説でも人によっていろいろあるんですけど、僕も自分の手元と繋がっている感じは大事だと思ってるんですよね。繋がったまま、どのくらい遠くまで行けるかみたいなことを考えたりする。自分と全然関係ないことを書こうとはやっぱり思わないし、それこそさっき言った実感みたいなもの、今日の出来事の中に、どれだけ他の今日以外の時間とか場所のことを書けるかみたいなことなんだけど。大事なのは、今日の実感みたいなものに、別の日とか別の場所とか、今日は存在していないかったものを、いかに繋ぎとめられるかみたいなことだと思うんですよね。

つまり、滝口氏にとって『自分の手元と繋がっている感じ』が、小説世界におけるリアリティーを保障しているということだろう。

滝口 日記って始まりと終わりを気にしなくていいという側面がありますよね。日付があるので、一日の始まりと終わりっていうのがまずはあって、その中でどれだけ書くかっていうことだから。その日の外に続いていくことも書けるというか、途中のことも途中のままかけてしまうんですよ。そして、その後のことは書かなくてもいい。小説だとそういう途中だけみたいなことは書きにくい。
植本 伏線が回収されないみたいになるってことですか。
滝口 そうそう。回収されない伏線みたいなことを書いたっていいんだけど、そこにはなんかナンセンスみたいな別の意味が生じてしまう。結局小説は「書かれた」っていう事後性からなかなか逃れられない。でも生活の中には、本当にただ、途中段階みたいなものがたくさんあるじゃないですか。(略)結論や結果がないものを書き込める。駅前でなんか謎の言葉を発している人がいたとして、小説に書くとそれが何を意味していたのか書く必要がどうしても出てくる。書かないのならその場面自体がなくていいということになるんだけど

日記から小説が芽生える

『自分の手元と繋がっている感じ』が小説におけるリアリティーの保障だとすると、結局、日記と小説の違いとは何だろう?
そのヒントは、『ひとつのことを、二行で終わらせていたところを、滝口氏の文章を読んで、十行書けるようになった』という植本氏の言葉にある。

その増えた八行は何かって、それは周りの描写だったなと思うんです。無駄に新宿の交差点のこととかを書きだしちゃったりして。

意外と気づかないことだが、実は日記と小説の違いは『周りの描写』にあるのではないか。それは単に文章が長くなるだけでなく、周囲に気づくことで、記憶や思索が想起されていくことにつながるからだ。

新宿の交差点について書くことで、文章としては日記から小説に近くなっていくと思うんですよね。視覚的な描写にはじまって、そこがどんな場所かという情報とか歴史的なことも書けるし、その場所についての自分の思い出とか印象みたいなことも書ける。(略)書かれたことから波状的に別の書くべきことが生まれて、いろんな時間や情報がそこに入り込んでくる。そうなるときっと日付が取れていくんですよ。書かれていくものがその日から離れて、その日のその日性が薄れていく。
(略)
それでその新宿の場面とかを書いていく中で、その中に「この人のことをもっと書きたい」って、自分以外の人のことを何でもいいから書き始めたとしたら、それはもうほとんど小説みたいなことになっていきますよね。私からも離れていくというか。(略)「書かれる」と「書く」とが分かれるってことだと思うんだけど、たぶんそれは、書き手が一歩踏み出すというよりかは、書いているうちに、いつの間にか外に出てしまったりとか、そういう風になるんじゃないかな。

滝口氏は、『いつの間にか外に出てしま』うことが『いいかはわからない』としながらも、作り手である自身としてはその方が良いと考えているという。

日記から離れるために、何かしたほうがいいってことは全然ないです。(略)(自分が小説を書くときには)作り出している感じになると、それは、あまりうまくいってないって思うんですよ。なるべく手を出さないようにする。

この鼎談の面白さは、「日記と小説の違い」の考察が「小説を書くとはどういうことか」の言及になり、それがそのまま「創作の誕生」になっているところにある。

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