「あれは漫才なのか?」というか「漫才って何?」
2020年の「M-1」優勝コンビのネタについて「あれは漫才なのか?」といった論戦(?)が繰り広げられているという。
私は、「M-1」はもちろん「R-1」だの何だの、とにかくお笑いのコンテスト番組や所謂「ネタ番組」も見たことがなく、「漫才」といっても1980年代のそれで止まっているところがあり、明日(2021年元旦)からテレビで放送されるような演芸番組を見ても、「ハイヒール」とか「大木こだま・ひびき」とかは馴染みがあって安心して笑うけれど、最近の人たちの漫才は身構えてしまって、うまく笑えない。
そういう私が、SNSなどで「漫才とは」みたいな書き込みをしている人に、「漫才とは何ですか?」と教えを乞うても、きっとそれらの人たちはうまく答えられないのではないかと思う。色々な漫才コンビの名前やネタといった「要素」を引き合いに出してくるだろうけれど、それは「漫才を説明」したことにならない。
「漫才」について、ダウンタウンの松本人志氏が『ワイドナショー』(フジテレビ、2020年12月27日放送分)で、『本当は決まりはないが敢えて決まりを作って、それを壊すのが「漫才」である』というようなことを言っていて、これは私にとって腑に落ちる発言だった。
「漫才」は当たり前だが「ある一つのジャンルの名前」という「概念」でしかなく、その概念を「自己模倣」や「否定」といったアプローチで「思考/試行し続ける行為」こそが「漫才」である、ということを松本氏は言っているのではないだろうか。
「思考/試行し続ける行為」こそが「漫才」であるとするなら、結局、いくら「要素」を積み上げても、「漫才」を定義しきれない、のではないか。
などと、漫才に無知な私があれこれ考えていても仕方がないので、いとうせいこう著『今夜、笑いの数を数えましょう』(講談社、2019年)で「漫才」を考えてみる。
本書は『群像』に2017年から2018年に連載された、いとう氏とお笑い関係者との対談をまとめたもので、引用した内容はその当時のものであることに留意されたい。
「ダウンタウン」の登場
色々な説はあるだろうけれど、漫才(というかお笑い全体)を劇的に変えたコンビとしては「ダウンタウン」は必ず挙げられるだろうと思う。
「ダウンタウンDX」などを手掛ける放送作家・倉本美津留氏との対談(2017年8月号)で、二人はダウンタウンとの出会いをこう回想している。
倉本 作家として入っていた紳助さんのラジオ番組で、紳助さんが番組を卒業する前に、まったく無名な二人を連れてきた。それがダウンタウンだったんです。その時に、伝説のネタになっているけれど、誘拐のネタをやったのを見て「ヤッバいわ、こいつら!」と思った。その時にいちばん衝撃だったのが言葉。ラジカル(引用者註:ラジカル・ガジベリビンバ・システム)とかモンティ・パイソンとかスネークマンショーとか、その辺のシュールで不条理な笑いは絶対に標準語というか東京弁のイメージが僕にはずっとあった。(略)でも、その新人の二人は、完全にベッタベタの大阪弁でそういう世界をやりだした。これはヤバイと思いましたね。その時に「こいつらは絶対天下取るな!」って、一瞬にしてわかった。
いとう 僕がダウンタウンで最初に覚えているのは、ある特番にラジカルで出た時に、ダウンタウンというコンビがリハーサルするというんで、どんなヤツらなんだろうと思って、大竹(まこと)さんとかと見に行ったの。(略)他のスタッフもいたけど、僕と大竹さんしか笑わなかったね。僕と大竹さんで「うわ、ヤバイ!関西にこんなヤツいるの?」って話になったのをよく覚えてる。
しかし、だからといってダウンタウンはモンティ・パイソンなどナンセンスコメディの影響を受けているかというと、そうではない、と言うのは倉本氏。
倉本 ダウンタウンはラジカルとかモンティ・パイソンとか全然知らなくて、まったく影響を受けてないんですよ。まあ、松本の方は天然シュールレアリストみたいなところがあるから、勝手にそうなっていたんですよね。どちらかというと、吉本新喜劇大好き少年ですから。でも、やっぱり何かしら違和感があって「そうじゃない笑いがある」という感覚が自分の中にずっとくすぶってたんでしょうね。
「ツッコミ」とは?
ダウンタウンが変えたものの一つが「ツッコミ」であると、二人は言う。
従来の「ツッコミ」について、二人はこう解説する。
倉本 (略)それまでは、例えばツービートにしても紳助・竜介にしても、おもしろい人がバーッとやって、ツッコミがそれのリズムを作るという感じだった。
いとう 「そんなわけないだろ!」ってね。昔のツッコミは、句読点を打つということがひとつ。漫才にリズムを作っていく。もう一個は、ツービートの場合は特に(ビート)きよしさんの「よしなさい!」がどういうふうに機能していたか。それを僕がどう見てたかというと、きよしさんが一応止めてるから、(ビート)たけしさんがより過激なことを言っていいことになるんだよね。
いとう 「一応止めてるから勘弁してやってください」になるから、みんなもそんなに怒らないで済むことになる。安全弁の役目になったツッコミなんだよね。そうじゃないツッコミはちょっと偉そうな立場から「お前はアホだよな」って言ってくる。まあ、ひとつのまとめです。「はい、一章終わりました。まとめました」で、なんとなくホッして笑う。
(太字、原文ママ)
確かに、それまでのツッコミは「いい加減にしろ」とか「よしなさいってば」とか、短い合いの手のようなものが主流だったような気もする。
だからか、「漫才はボケ」という風潮もあったような気もするが、現在は「ツッコミ」が花形のような気もする。
いとう氏は『ダウンタウンのあたりからその関係性が変わってきた気がする』と言う。
倉本氏は、『ダウンタウンがツッコミで笑いを作るっていうのをグッと進化させてしまった。ツッコミもしっかりと笑いを作れるということを広めた。そこはもう浜田雅功のすごい才能』と評する。
倉本 ボケがわかりにくいボケをわざとする。ツッコミがそのボケに対して簡単につっこまない。アンテナの高い人間はそれだけで笑えるんです。でも、あえて更にアンテナが高くないと笑えないことを言うんです。そこを翻訳する言い方がいろいろある。
いとう 「いい加減にしろ!」じゃないヤツだよね。
ダウンタウンが変えたツッコミは、確かに漫才を進化させた。しかし、進化には、同時に副作用が伴う。
倉本 ボケとツッコミの両方で笑いを取れるっていう選択肢をダウンタウンが増やしちゃったんです。となると、みんなが憧れるんですよ。でも、出来る人間と出来ない人間がいるじゃないですか。あれをお手本にしてしまうと、早くつっこむとか、ツッコミもいっぱいしゃべるということだけが重要視されてヘンな方向に行っちゃう。
いとう 形式だけを覚えちゃうからね。
(太字、引用者)
「M-1」ファイナリストを予想する
本書には、歌人・枡野浩一氏との対談も掲載されている(2018年4月号)。
何故、歌人なのか?
いとう 枡野くんはおととし(2016年)の『M-1(グランプリ)』の時に決勝に誰が上がるか全員当てたよね。
枡野 予選からずっと観ていて、準決勝の時に自分がいいと思ったものを挙げてたら、それがたまたま審査員の意見と一致しちゃって。八組全員を歌人が当てたとヤフーニュースになったんですよ。
当時、枡野氏はどのようにファイナリストを当てたのか。
枡野 お笑いだけど、詩歌を選ぶみたいに選んだんですよ。他と比べた時の珍しさとか、去年と比較して成長があるかとか……えらそうでしょ、なんか(笑)。
枡野 あと、テレビでの人気度、知名度はあるけど、面白さがそれほどでもなかったものや、自分が個人的に好きなものは外しました。
枡野 あとは、ダウンタウンの松本(人志)さんが観た時にバカにしないものっていう基準で選んでいったんですよ。
枡野 松本さんの基準は僕から見たら詩歌の基準みたいなものだと思ってるんです。で、それこそジャルジャルとかが笑えないっていう人がいるんですけど、「それは笑いの素養がないからだ」と言って、僕は多くの人をちょっと怒らせちゃったんです。
生で観るか、映像で見るか。その乖離
枡野氏はもう一つ、重要な点を挙げている。
枡野 『M-1』の準決勝を観ていても、映像になった時に何かが損なわれてしまうネタがあるわけです。テレビの人もたぶんそう思っていて、生で観たら面白いけど映像で観た時につまらなく観えちゃうものは損なんですよ。
(太字、原文ママ)
当然だが、舞台上の漫才を生で観るのと、映像で見るのとでは受け取り方が全く変わってくる。
それが、演者と観客(視聴者)だけでなく、観客どうしの乖離をも生む。
枡野 でも、たくさん見ていると、「あ、こういうのがあるな」っていう慣れがどんどん出てきて、飽きてきちゃうんですね。当たり前な話ですけど、芸人さんってお笑いについてものすごく詳しいんですよ。僕がいたのはSMA(ソニー・ミュージックアーチスツ)っていう(略)事務所だったんです。みんなすごくお笑いを観ているから、何観ても、「これはあれだよね」って、過去の例を挙げて言えちゃうんです。あと、テレビのお笑いだと、今はネタ番組があまり人気がないじゃないですか。その乖離というか、お笑いファンの中にもライブをずっと観ている人がいて、そういう人たちとテレビだけ観ている人は、すごく差があると思いますね。
その乖離が、予選が「生」でそれ以降が「テレビ」になる「M-1」にとって、少なからず影響を与える。
いとう 舞台の笑いとテレビの中の笑いが違ってくるのは明らかで、客層も違うのは当然なんですよね。ライブを観に来てる人と、番組を見てる人は実は笑いに求めてるものが違う。となると、現場でやるほうはものすごくやりにくい。笑い待ちをどうするかは、芸人にとってはものすごく重要なテクニックなんだけど、笑ってる間にセリフをかぶせちゃうと聞き取れないから、そこのウケが減ってしまう。でも、そこで変な笑い待ちをしちゃうと、テレビ上ではおおいにテンポが狂っていくことがある。
枡野 そうなんですよ。だから二つのバージョンをやらなきゃならないというか、予選で勝ち抜いた上でテレビでは違うことをやらなきゃならない。
と、そんなわけで、本書をパラパラと捲って、「漫才」や「M-1」に関すると思われるところを読んでみたわけだが、やっぱり、「漫才とは何か」には辿り着かなかった。
しかし、松本人志氏が言うように、『敢えて決まりを作って、それを壊すのが「漫才」』なら、それは常に形を変え、進化し続けているのである。
まぁ、難しい事は抜きにして、「笑ってはいけない」を見ようっと。