ドキュメンタリーとカメラ

以前、『14歳の栞』というドキュメンタリー映画について、「3学期の日常」と書いたが、厳密に言えばそれは正しくない。

その理由は、佐々木敦著『これは小説ではない』(新潮社、2020年)から、引用すると、こういうことになる。

何らかの「現実」の中にカメラを持ち込むことによって成立するドキュメンタリー映画は、そもそも根本的な矛盾を抱えていたと言っていい。その時その場に、闖入者、被当事者、部外者としてのカメラが存在しており、それによって撮られた結果としての「現実」は、当然ながらすでに素の「現実」ではないからである。

ドキュメンタリー映画の「現実」は、いわば「現実」+「カメラ/撮影」なのである。しかも、この条件を受け入れなければドキュメンタリー映画は撮ることができない。(略)この問題は、あらゆるドキュメンタリー映画に前提として内在する「矛盾」であるとともに、その絶対的な成立要件でもある。

「それは観る側も了承していることであり、それ込みで『日常というお約束』」とドキュメンタリーを捉えることはできるし、事実、佐々木も指摘しているとおり、その「お約束」なしでドキュメンタリーは成立しない。

しかし、撮られる側/観る側双方が、その「お約束」を前提とした距離感を保っているとは言い難いのではないか。

たとえばテレビ番組で言えば、撮られる側としては街歩き番組で出演者が触れ合う住人たち、観る側としてはリアリティー番組への接し方。
正しい距離感ではないと感じることがある。


撮る側

佐々木は、この矛盾に対しドキュメンタリー映画作家が採る手法は、大きく二種類あると言う。
一つは「セルフ・ドキュメンタリー」と呼ばれる『むしろ、積極的にカメラ/マンが「そこにいること」を前面に押し出していく』手法。
もう一つは、『それでも尚、何とかして「そこにいること」を可能な限り消去しようと試みる』手法。

ここでは二つの手法を検証しないが、言えるのは、前者の手法はもちろん、後者にしても「被写体の意識から、完全にカメラを排除できない」、逆に言うと「被写体の言動にカメラが影響を与えることを完全に排除できない」ということである。

これについて、2018年に日本映画専門チャンネルで放送された、是枝裕和監督と相田和弘監督が対談した番組『ドキュメンタリーを考える』で、是枝監督がこう発言している。

ドキュメンタリーでも、たぶん、「ああ、やってくれてるな」って瞬間があるじゃない?

(相田監督の2008年公開の映画)『精神』でいうと、子どもを殺してしまったお母さん…「殺すつもりはなかったけど、旦那さんと喧嘩して…」みたいな…ずっと説明してくれるじゃない?(略)カメラ回ってるから、普通なら「言わないでおこうかな」って話をしてくれるじゃない?

これは自身の作品を「観察映画」(「観察」は人類学上の「参与観察」を意味し、番組では「観察者が対象の中に入り観察を行うこと」と説明されている)と総称している相田監督だから顕著なのかもしれないが、しかし、そこまで対象者に入り込まないドキュメンタリーでも、対象者が『カメラ回ってるから、普通なら「言わないでおこうかな」って話』をしてしまっていることは、往々にしてあるのではないだろうか。

この状況は『14歳の栞』にもあって、実際に竹林監督がハフポスト日本版の取材(2021年3月15日配信「35人の14歳の日常を記録した映画『14歳の栞』、上映エリア続々拡大中。思春期のリアルを撮った監督の覚悟」)に、こう答えている。

「いつの頃からか『カメラを見ないであげよう』『今撮影してるから話しかけるのやめとこう』などの気遣いが感じられるようになって…。ありのままを撮っているものなんだけど、そこにはどこか『見せられる姿を見せる』という態度もあって。それが撮る側と撮られる側の共同作業のようでした」

ちなみに、『14歳の栞』は生徒たちを正面からインタビューし、その中でスタッフが相槌を打ったり、生徒の話に乗っかってきたりと撮影側の存在を隠していない。


さて、なぜ私が『14歳の栞』という映画を引き合いに出して、このようなことを考えたかというと、竹林監督の言う『見せられる姿を見せる』という生徒の姿勢がスクリーンから見えた気がしたからだ。
なお、上述のハフポストの記事は映画を観た後に掲載されたため、鑑賞時は監督のインタビューのことは知らなかった。

予め大事なことを断っておく。
これから書くことは、決して映画や人物への批判/非難ではない。あくまでも「ドキュメンタリー映画において、カメラの存在が被写体に与える影響の可能性」について考えたいだけ、ということに留意願いたい。

それは、教室で授業を受けられない生徒がいる部屋(所謂「保健室登校」というものだが、その学校では保健室ではなく専用の部屋があるらしい)に、その原因を作ってしまったのではないかと自身を責めている男子生徒が、給食を届けるというシーン。
男子生徒はその給食に、「修了式の日に2年6組全員で集合写真を撮ることになったので、それに参加してほしい」という手紙を添えた。

教室で授業を受けられない生徒は、この映画のインタビューに対しても、その理由については口を閉ざしている。従って、その原因が男子生徒にあるという確証はない。
何か行動を起こすことによって、逆に彼自身が傷つく可能性もある。
それに、もうすぐ3年生に進級して、その生徒と別のクラスになるかもしれない。そうすれば、その悩みから解放されるかもしれない…
だから、良心の呵責に苛まれながらも、何も行動を起こさないことだってできたはずだし、そうしたとしても観客を含め誰も彼を咎めないだろう。

しかし、彼は行動を起こした。
その行動自体、そしてその行動に至るまでの葛藤や逡巡に打ち勝った勇気を、私は素直に素晴らしいと思う。
私なら絶対に目を逸らし、尻をまくって逃げていた、絶対の自信がある。
だから当然、彼自身や彼の行動について、何も非難するところはない。

しかし…と、映画を観ながら、ふと思ったのである。
カメラが、彼を駆り立てた可能性はないのだろうか

ヤラセだと言っているわけではない。
男子生徒は彼なりに考え抜いた末、行動を起こしたことは疑いようがない。
ただ、その行動の発案に至るきっかけがカメラの存在だった、また、その発案を実行し、完遂するために、カメラの存在を心の支えにした、ということはないだろうか?
何度でも繰り返すが、たとえそうであっても、彼は誰からも責められる謂われはない。

ドキュメンタリー映画が「第三者が向けるカメラ」によって作られたものとするならば、「カメラが被写体に与える影響」は完全に排除できず、従って佐々木が指摘するように、それはやはり「(素の)現実」ではない、という宿命を背負っている。

だからドキュメンタリー映画は、観る側との共通了解があるのが前提だ。
換言すれば、「リアリティーであってリアルではない(リアリティー≒現実)」ということである。


見る側

「ねとらぼ」というサイトの2021年7月7日配信『ドキュメンタリーの出演者に「めちゃくちゃキレたり炎上させたりする」のはやめようよ、という話』という、漫画家の山本さほさんの記事を読んだ。

山本さんはフジテレビ系のドキュメンタリー番組『ザ・ノンフィクション』が大好きらしいのだが、そこに映る人物に対し『「カメラがあるのにケンカできるってすごいなー」と思っちゃう。自分だったら(略)抑えちゃうと思う』と言う。
そういった映像に対して、『「やらせだろう」とかじゃなくて、(略)裏側を考えちゃう自分が嫌だな、っていう。純粋に楽しみたいな』と思っているらしい。

山本さんは『私はどうしてもカメラの存在が頭に浮かぶので、一歩引いて見てしまうんですけど』と前置きしたうえで、「視聴者の中には本気で怒ったり悲しんだりしている人がいる」と言及し、『特にキレたりするのは「みんなやめよう?」』と結論づける。

これだけ読むと正論なのだが、何かが引っ掛かる。

山本さんの『カメラの存在が頭に浮かぶ』発言は、前述した佐々木の『闖入者、被当事者、部外者としてのカメラの存在』と一見同義であるように思われるが、そのカメラによって佐々木が「ドキュメンタリーに求められる現実性を担保できるか」を問題にしているのに対し、山本さんのそれは「ドキュメンタリーが撮られた現実的状況を想像できてしまう自分」である。
そこでは、ドキュメンタリーの宿命である「『被写体の意識から、完全にカメラを排除できない』矛盾」が、無批判のまま無自覚に受容されている。

それは、先の『14歳の栞』に出演していた中学生たちの『見せられる姿を見せる』態度や、私の『カメラが駆り立てた』という考えだけでなく、是枝監督や相田監督の『ああ、やってくれてるな』という実感すら、最早どうでも良く、むしろそれらの行為が積極的に肯定されているということでもある。

『純粋に楽しめない』山本さんが『見えてしまっている』「現実」は、「ドキュメンタリーの被写体の前にはカメラ(=冷静な傍観者)がいることがわかってしまっている自分」という「主観的現実」であり、その主観的思考の前では、既に「ドキュメンタリーのカメラで撮られた被写体の姿や言動は現実か否か」という「客観的現実」の問いは失効してしまっている。

それはつまり、彼女を含めた一般視聴者が、「ドラマ」や「バラエティー」と同じレベルで「ドキュメンタリー番組という"コンテンツ"を見ている」ことを示唆している。
だから視聴者は、「俳優・芸人など所謂芸能人」ではない「素人」が、「傍観者がいる前で普段どおり(って、普段は知らんけど)でいられるのってすごいなー」と感嘆しながら、ただ"コンテンツ"を楽しめる(「消費する」と言った方が正しいかもしれない)。

それを踏まえた上、山本さんの啓蒙を読む。

見ている人が出演者にキレまくって炎上騒ぎになったりすると、出演者が出てくれなくなったり、番組の作りが過剰にマイルドになってしまうじゃないですか。それで番組がつまらなくなったりすると、こっちの楽しみも減っちゃうし、怒ってる人は自分で自分の首を絞めてるんだよ、って

一見「炎上はやめようね」の啓蒙のようだが、炎上によって「出演者が『こっちの楽しみ』どおりに動かなく(結果、『つまらなく』)なる」ことに対する、『こっち』=「キレないで素直に楽しんでいる視聴者」の懼[おそ]れでしかない。

これは結局、「こっち(側にいる我々)が楽しんで見てるのに、炎上させてジャマすんじゃねーよ」程度の身勝手な主張でしかなく、従って、「生身の出演者が身の危険や精神的ダメージを受ける」といった「現実で問題になっている本来の意味での炎上被害」は想起されない(出演者側の被害は「(自分の意志で出演しているのだから)自己責任」などと都合の良い言葉で葬られるだろう)。

さらにこの主張には「炎上による被害者は『こっち』だけであり、『出てくれなくなる出演者』や『番組の作りを過剰にマイルド』にさせる製作者も、『こっちの楽しみを減らす』加害者」と過剰な被害者意識も隠されている。

そういった『こっち』側の認識下では、出演者は「生身の人間」という「現実」が排除されており、『こっち』が見ているテレビやスマホの画面に映し出されるコンテンツの中だけで生きている「ただのキャラクター」に仕立てられている。
「キャラ」だから、『こっち』である我々一般視聴者と違って『カメラがあるのにケンカできる』のだと都合良く誤解したりもできる
さらには、「キャラ」だからこそ、ただただ『こっち』を楽しませることだけに奉仕する存在であるべきという身勝手な要求も透けて見える。

『こっち』から「キャラ」としか認識されない出演者たちは、「画面を外れた場所では『こっち』と同じように一人の人間として生きている現実とその尊厳」に頓着してもらえない。

それで番組がつまらなくなったりすると、こっちの楽しみも減っちゃうし、怒ってる人は自分で自分の首を絞めてるんだよ

番組でのイメージによって精神的/身体的に傷ついた人々、身の危険にさらされてしまった人々、そして自ら命を絶ってしまった人々を思い浮かべながら読み返すと、かなりゾッとする…


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