40年以上も前の出来事だ。
2024年現在、多くの人にとってアルフィー(現・THE ALFEE)は、物心ついた時から「スターバンド」だっただろうし、毎年夏に大きなイベントライブをやっていたり、クリスマスにも毎年必ず武道館ライブを行うことを知っている人も多いだろう。
しかし、1983年8月24日、彼らにとって初の武道館ライブは「異例」ー「事件」と云っても過言ではないほどーだった。
何故なら、当時の彼らには「ヒット曲がなかった」からだ(後述するが、同年発売の「メリーアン」は武道館ライブのチケットが完売した後にヒットした)。
アリーナ級のホールも、スタジアムでのライブも一般的ではなかった当時、所謂「ミュージシャンすごろく」の"上がり"は、日本武道館だった。
武道館でライブをする最低条件は「売れていること」、逆にいえば、「売れている証し」こそが武道館ライブである。
だから、「ヒット曲なしの単独武道館公演」は異例中の異例、というか、本邦初だったのではないか。
そもそも何でこんなことになったのかというと、ライブから遡ること約1年……
この高見沢の発言には少し説明が要る。
アルフィーがデビューしたのは1974年8月25日。だから、1983年同日はデビュー9周年にあたる。彼は「何かやるぞ!」という発言の前に、こう言っている。
「来年で結成10年です」
後に彼は度々、その発言は「勢いだった」と語っているが、ライブ自体も彼の「勢い」がさく裂した。
で、どうなったか。
長々引用してきたが、いよいよ本題。
渡辺芳子著『夢さがし アルフィー・高見沢俊彦物語』(CBS・ソニー出版、1983年。以下、本書)は、冒頭に引用したとおり、そんな無茶ぶりを実現させた(それはもう、スタッフの方々のお陰!)ライブが終演を迎えたところから始まり、高見沢俊彦のそれまでの半生を回想形式で追ってゆく。
8歳も年上の兄と比べられてばかりで、それに反発を覚えた少年時代。
バスケットに熱中した中学時代。キャプテンを任された最後の試合で敗れ、強烈な挫折と後悔を味わった。
逃げるように入学した高校に、桜井賢がいた。
その後大学生になった高見沢は、別の高校から大学に入学してきた坂崎と、桜井を介して出会い、当時一人暮らししていた坂崎の部屋に転がり込む。
高見沢はやがて、桜井・坂崎らが結成していたフォークグループに参加し、デビューする。それが1974年8月25日。20歳の時。
売れてはいなかったが、3人の関係は続いた。しかし……
彼らは長い「上積み」(彼らは「下積み」とは言わない)期間に入る。アマチュアから再出発し、やがて、ポニーキャニオンから再デビューを果たす。
最初は売れなかった……が、やがて「上へ上へと積上げて」きた努力が実を結ぶ。
それが1982年の所沢であり、ついに1983年……
そして……
そして迎えた8月24日。彼は29歳になっていた。
「OVER DRIVE」で幕を開けたライブは「夢よ急げ」と繋がり、そしてアンコールの最後、やはり「夢よ急げ」で幕を閉じた。
そんな彼らのそれからの活躍は知ってのとおりだ。
『次の10年、20年』を軽々と越え、昨年(2023年)、初の武道館公演から40年、つまり結成から50年を迎え、今年、いよいよデビュー50年(半世紀!)となる。
彼は、本稿投稿日前日の2024年4月17日、70歳(古希)を迎えた。
私はとりたてて「アル中(アルフィー中毒)」ではなかったが、「メリーアン」のヒットが中1の時で、「ブレーク」というのを(テレビ越しではあるが)目の当たりにしたような感じで、彼らの活動から目が離せなくなった。
全国をツアーして回る彼らは、当時田舎暮らしだった私の地元にも来てくれた。だから何度もライブに行った。
2024年8月25日。私は何をしているかわからないが、ビール片手に当時のビデオでも見ながら、(かつての、そしてもちろん現役の)「アル中」の皆さんを思い浮かべながら共に、ささやかなお祝いできたらと思っている。
出典
[1] 『THE ALFEE SUMMER EVENTS 1982-1991 永遠の夏』(ソニー・マガジンズ、1991年)
[2] 『THE ALFEE STAGE PROJECT アルフィー ステージ アートの世界』(学研、1994年)
[3] 『THE ALFEE デイリープレス 1981-1986』(ワニブックス、1987年)
それ以外の引用は全て『夢さがし』より