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渡辺芳子著『夢さがし アルフィー・高見沢俊彦物語』&『THE ALFEE SUMMER EVENTS 1982-1991 永遠の夏』『THE ALFEE STAGE PROJECT』~

(19)83年8月24日、午後8時55分。東京・九段の日本武道館。今、アルフィーのコンサートが終了したばかり。大きな天井の客席電灯はすべて点されていた。場内は昼間のように明るい。その中で、息切れを知らない「アンコール!」の声が……

40年以上も前の出来事だ。
2024年現在、多くの人にとってアルフィー(現・THE ALFEE)は、物心ついた時から「スターバンド」だっただろうし、毎年夏に大きなイベントライブをやっていたり、クリスマスにも毎年必ず武道館ライブを行うことを知っている人も多いだろう。
しかし、1983年8月24日、彼らにとって初の武道館ライブは「異例」ー「事件」と云っても過言ではないほどーだった。
何故なら、当時の彼らには「ヒット曲がなかった」からだ(後述するが、同年発売の「メリーアン」は武道館ライブのチケットが完売した後にヒットした)。

アリーナ級のホールも、スタジアムでのライブも一般的ではなかった当時、所謂「ミュージシャンすごろく」の"上がり"は、日本武道館だった。
武道館でライブをする最低条件は「売れていること」、逆にいえば、「売れている証し」こそが武道館ライブである。
だから、「ヒット曲なしの単独武道館公演」は異例中の異例、というか、本邦初だったのではないか。
そもそも何でこんなことになったのかというと、ライブから遡ること約1年……

1982年8月6日、所沢航空記念公園で初めての夏のイベントを行なった。
このときの観客数は5000人。「メリーアン」がヒットする1年前のこと。当然目立ったヒットはなく、一般的には知名度が限りなくゼロに近いときである。その時点でこれだけの人間を集めてしまったのだ。
アルフィーをとりまく何かが確実に変化しはじめたこの年。(略)そのことに意を強くした高見沢がこのステージで「来年の8月25日に何かやるぞ!」と衝撃発言。それが、翌年の武道館への布石となった。
そして1983年8月24日、彼らは武道館コンサートという夢を実現させる。(略)
当時、アルフィーの宣伝を担当していたポニーキャニオンのあるスタッフが(略)しみじみと僕にこうつぶやいた。
「武道館は賭けだったよね。なにしろ「メリーアン」発売前に、会場を押さえていたわけだから。うまくいったからいいけど、失敗すれば大変なことになってたろうな」

[1]

この高見沢の発言には少し説明が要る。
アルフィーがデビューしたのは1974年8月25日。だから、1983年同日はデビュー9周年にあたる。彼は「何かやるぞ!」という発言の前に、こう言っている。
「来年で結成10年です」

後に彼は度々、その発言は「勢いだった」と語っているが、ライブ自体も彼の「勢い」がさく裂した。

高見沢がマーシャル・アンプを並べたいと言いだした。(略)高見沢を知る人は彼の気持ちがわかると思うが、'70年代のハードロックの洗礼を受けた高見沢にとっては、マーシャルはロックの象徴だったのだ。

[1]

で、どうなったか。

ステージ左右に8個ずつ、後ろに12個×4段(48個)、後方下段14個、合計78個のマーシャルの壁は、まさに当時の観客を圧倒した。
(略)
もちろん、ビジュアルだけで、実際に全てのマーシャルの音を鳴らしたわけではないが、本物のマーシャルをこれだけ集めるには、スタッフも苦労した。それこそ日本中の楽器の機材のレンタル会社に電話をかけ、集められるだけ集めた。九州と北海道からは飛行機で、後は陸送で、どんどん集まり、結果78個という数が集まったわけだ。

[2]

長々引用してきたが、いよいよ本題。
渡辺芳子著『夢さがし アルフィー・高見沢俊彦物語』(CBS・ソニー出版、1983年。以下、本書)は、冒頭に引用したとおり、そんな無茶ぶりを実現させた(それはもう、スタッフの方々のお陰!)ライブが終演を迎えたところから始まり、高見沢俊彦のそれまでの半生を回想形式で追ってゆく。

8歳も年上の兄と比べられてばかりで、それに反発を覚えた少年時代。
バスケットに熱中した中学時代。キャプテンを任された最後の試合で敗れ、強烈な挫折と後悔を味わった。

そして高見沢は逃げた。彼をとりまいていたバスケットにかかわるものすべてを自ら遠ざけた。バスケット部の同級生や後輩、ありとあらゆるバスケットを捨ててしまった。
(略)
だから高校も、自宅から1時間半近くかかる東京の白金台にある明治学院大学付属高校に決めた。仲間と極力会わないようにするためだった。

逃げるように入学した高校に、桜井賢がいた。
その後大学生になった高見沢は、別の高校から大学に入学してきた坂崎と、桜井を介して出会い、当時一人暮らししていた坂崎の部屋に転がり込む。

「なぜか気が合ってね、ひと目惚れかな。あいつは埼玉の実家から通ってたのに、週に1回ぐらいしか帰らなくて、ほとんどオレのアパートに寝泊まりしていたね」
(略)
坂崎は言う。
「出会いのインスピレイションは男と女の"それ"といっしょ」
まんざらジョークでもない顔だ。

高見沢はやがて、桜井・坂崎らが結成していたフォークグループに参加し、デビューする。それが1974年8月25日。20歳の時。

坂崎との同棲生活のあと、原宿のアパートでひとり暮らしを始めた高見沢のもとに、こんどは桜井がころがり込んだ。
(略)
桜井はその頃、品川区西小山の親戚の家に下宿していた。高見沢の住んでいる原宿のほうが仕事場に行くのも便利だ。桜井はそれから3日とあけずに高見沢のアパートにころがり込むようになり、半同棲が始まった。

売れてはいなかったが、3人の関係は続いた。しかし……

やがて、アルフィーはビクター・レコードをクビになった。3枚目のシングル「府中捕物帖」が突然発売中止となったのが原因だった。(略)
自分たちの知らないところでいろんな物事が決められ、動いていた。何ひとつ口をはさむことも抵抗することも当時はできなかった。
誰を恨んでも仕方ない。どうにもならなかった。
「結局、自分たちにはろくなオリジナルもないし、自分たちが不甲斐なかったんだから」
今となっては、サラリとふり返ることはできるが、当時、まだ21歳。
(略)
高見沢に曲を書けと教えた大野(真澄・フォークグループ「ガロ」の通称「ボーカル」)は言う。
「あいつがはじめの頃に書いてた詞、もうものすごいのなんのって、"大地は割れ、いなずまが落ち"なんて、もうめんどくさい詞ばかり、やたらむずかしい漢字ばかり使ってね」
(略)
「サルトルとかボードレールとか好きだったから、歌の詞なんてバカらしいと思ってたよ、最初は。でも、これがむずかしいんだな。大野さんにはよく𠮟られたよ。こんなのは歌の詞じゃないって……」

彼らは長い「上積み」(彼らは「下積み」とは言わない)期間に入る。アマチュアから再出発し、やがて、ポニーキャニオンから再デビューを果たす。
最初は売れなかった……が、やがて「上へ上へと積上げて」きた努力が実を結ぶ。
それが1982年の所沢であり、ついに1983年……

大宮・千葉のコンサートチケットがソールド・アウト。日本武道館コンサートの前売りは5月20日から始まったが、徹夜のファンが並び、アリーナは売り切れ。「2階後方しか買えなかった」と文句をいってくるファンも多いとか。

[3]

そして……

6月21日、14枚目のシングル「メリーアン」が発売になった。前曲をうけてヒット・チャートを順調に上ってきた。そして予想に反して、武道館のチケットが発売2週間でソールドアウトになってしまった。と同時に、「メリーアン」がヒット・チャート上位に浮上してきた。

そして迎えた8月24日。彼は29歳になっていた。

「兄貴とは正反対だよ」
勉強はできたし、人づきあいはいい。堅実で真面目な兄は今、エリート・サラリーマン。弟はといえば、不愛想で、短気で、人見知りして、29歳になって今でもあいかわらず夢と同棲している。

「OVER DRIVE」で幕を開けたライブは「夢よ急げ」と繋がり、そしてアンコールの最後、やはり「夢よ急げ」で幕を閉じた。

たった今、9年と365日のアルフィーが終了した。それは、終着点でも折り返し点でもなく、次の10年、20年へ向かう、スタートの日。それ以外の何ものでもなかった。地道なコンサート活動とレコード制作だけが彼らのすべて。熱心なファンはいたものの、一般受けするほどの知名度は持ち合わせていなかった。

そんな彼らのそれからの活躍は知ってのとおりだ。
『次の10年、20年』を軽々と越え、昨年(2023年)、初の武道館公演から40年、つまり結成から50年を迎え、今年、いよいよデビュー50年(半世紀!)となる。
彼は、本稿投稿日前日の2024年4月17日、70歳(古希)を迎えた。

私はとりたてて「アル中(アルフィー中毒)」ではなかったが、「メリーアン」のヒットが中1の時で、「ブレーク」というのを(テレビ越しではあるが)目の当たりにしたような感じで、彼らの活動から目が離せなくなった。
全国をツアーして回る彼らは、当時田舎暮らしだった私の地元にも来てくれた。だから何度もライブに行った。
2024年8月25日。私は何をしているかわからないが、ビール片手に当時のビデオでも見ながら、(かつての、そしてもちろん現役の)「アル中」の皆さんを思い浮かべながら共に、ささやかなお祝いできたらと思っている。

出典
[1] 『THE ALFEE SUMMER EVENTS 1982-1991 永遠の夏』(ソニー・マガジンズ、1991年)
[2] 『THE ALFEE STAGE PROJECT アルフィー ステージ アートの世界』(学研、1994年)
[3] 『THE ALFEE デイリープレス 1981-1986』(ワニブックス、1987年)

それ以外の引用は全て『夢さがし』より


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