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やる気も希望も失わせる「私なんかいないほうがいい」

「居場所がない」
「私なんかいないほうがいい」
そんな悩みや苦しみを抱えてきた方も、そうでない方にも、この拙い文章がなにかのお役に立てるなら幸いです。


はじめに。
今回お話しする「場違い」「場違い感」は、

  • 実際に周りの人たちが困惑しているのに、
    それにも気づかず、本人に自覚がなく、
    居直っていて空気が読めない。
    周りの人から見た「場違い」な人

のことではなく、

  • 周りの人たちから「一緒にいてほしい」と
    慕われていたり、感謝されていたり、頼りにされていたりする。
    なのに、当の本人は自分を否定し、恐縮して
    「自分なんかがここにいたら迷惑になる」と
    身を引いてしまう、空気を読みすぎてしまう。
    周りの人はそう思っていないのに、
    自分で自分を「場違い」だと感じてしまう人

という意味で取り扱っています。

とある話を受けて書きましたが、
私の心の中にあった苦しみでもありました。

なので、人生相談の事例紹介でもあり、
私の悩み解消の独白でもあります。

いい年した大人の自分語りなど興味がない、聞くに耐えないという方は、読むのはここまでにして閉じてください。

とはいえ「私にも似たような、思い当たるところがあるぞ…?」と感じる方がいらっしゃるかもしれませんので、書き残しておきます。

「誰もわたしがここにいることを望んでいない」

キッカケは、眠っているときに見た夢でした。
(ここから先は、夢の中の内容です)

学校の夢。中学校か高校ぐらいでしょうか。

夢の中のわたしは、学校を休みがちな落ちこぼれの生徒でした。

わたしは久しぶりに学校へ行き、真面目に出席します。

しかし、休み続けたせいか、授業の内容にまったくついていけません。

先生がなにをしゃべっているのか、全然わからない。

すると「そんなこともわからないのか」と、先生に叱られてしまいます。

周りの同級生たちからは冷ややかな目で見られ、わたしはせっかく授業に出たのに、すっかりやる気をなくしてしまいました。

今にも泣きそうなくらい、悲しくてみじめな気持ちになっているわたしを、フォローしてくれたり、なぐさめてくれたりする友だちは誰もいません。

やっぱり、わたしは家で引きこもっていたほうがよかったんじゃないか…。
学校に来て授業を受けるなんて、らしくないことをしてしまった…。

先生も、クラスメイトも、誰も、わたしがここにいることを望んでいない。
わたしには、学校に居場所がないんだ。
ここにいるのは、場違いなんだ。

…と、夢の中のわたしが顔を伏せたタイミングで、
私はハッと目が覚めました。

居場所がないのは、自分が無能なのが悪いからだ

私にとって衝撃的だったのは、この見た夢がキッカケで、長年抱えてきた悩みの正体がわかったことです。

私は、子どもの頃から漠然と「居場所がない」という感覚を抱えて生きてきました。

実際、イジメを受けたり、仲間はずれにされたり、家庭内が荒れたりして、居場所がない状態になったこともあります。

私は、自分を責め続けていました。
居場所がないのは、自分が悪いからだと。

「イジメは、イジメられるやつにも理由がある」みたいな理不尽な理屈を真に受けて、自分に原因があるからに違いないと思っていました。

学校や家族との人間関係がうまくいかないとか、勉強についていけないとか、運動神経が悪いとか、コミュ障だからとか、ダサいとか。

そういう「出来ないから」「無能だから」「劣っているから」「役に立てないから」が理由で、私には居場所がないのだと、そう考えていたのです。

居場所がない悩みの根っこにあった「場違い」感

だけど、もしもこの世界が、何かが出来なかったり、劣っていたり、役に立てなかったりすると、存在価値がなく、居場所を奪われてしまうのなら、

赤ちゃんは誰も存在してはいけないことになります。
初めて何かに挑戦する初心者には、居場所が与えられないことになります。

実際の現実は、本当にそうでしょうか。

いったい何がキッカケだったのかわかりませんが、私は、そもそも世界観を誤認していたようです。

世界とはこういうものだ、その中で人はこう生きるものだ、という、世界や人へのものの見方が、そもそも間違っていました。

「私はここにいないほうがいい」。
無価値感や居場所がない感覚の正体は、

私の心の奥底にあった
「そもそも私は場違いな人間だ」
という信じ込みが作り出したもの。

だから、どこにいても、誰といても、何をしていても、評価されてもされなくても関係なく、常に居場所がない感覚と無価値感が横たわっていました。

なにかイヤな/ツラい出来事があったから、それがキッカケで心が歪み、悩みが生じた…のではなく、

そもそも心の奥深くの価値観にバグがあったから、その色眼鏡で現実を見て、起きる出来事をイヤな/ツラいことだと感じて、悩みが生じていたのです。

親が悪いのではなく、学校や同級生たちが悪いのでもありませんでした。

イジメや家庭内の不和は、あくまで結果であって、原因ではなかったのです。

勘違いした世界観が初期設定のまま、
「私なんかが、ここにいちゃいけない/ここにいるのがふさわしくない」
と感じ続けるのだから、居場所がない悩みが解消されなくて当たり前です。

繊細さんほど「場違い感」を覚えやすいのではないか

たとえ、本当に周りからの評価が「場違い」だったとしても、
『私が/俺がここにいて何が悪い!』と、居直れる人もいます。

だけど、全員が全員、そのように図太く生きていけるわけではありません。
(場違い感がない人が、全員が全員、図太い人というわけでもありません)

特に、周りに気を配れる人や、
空気を読みすぎるぐらい読んでしまう人、
繊細な感受性をもった人、
自分に厳しすぎる人ほど、

本当は場違いじゃないのに、所属欲求や承認欲求が踏みにじられ、無価値感や劣等感からくる「場違い感」を覚えやすいのではないか、と思うのです。

周りを気遣える人ほど、
「私がここにいても、みんなに迷惑をかけるだけだ」
と、良かれと思って、その場から立ち去ろうとするのではないかと。

学校のハードルが高すぎて、不登校が不思議じゃない

子どもの頃に、能力があるかないか、できるか出来ないか、など、厳しすぎる評価にさらされてきた人ほど、無価値感や場違い感を抱えやすくなるかもしれません。

現に今、学校に(行きたいのに)行けなくて苦しんでいる子どもたちがいます。その子たちの何人かは、学校に行っても自分は場違いだ、と感じているかもしれない。

学校での場違い感を拭うには、

  • 勉強ができるかできないか

  • 運動ができるかできないか

  • 友だちと仲良くできるかできないか

  • 先生の言うことを聞けるか聞けないか

などの条件をクリアしなければなりません。
だけど、

どうせ、行っても勉強についていけない。
行っても勉強がつまらなすぎて受ける意味がない。
先生の話を聞く気になれない。
誰も仲がいい友だちがいない。

どうせ、学校へ行ってもイジメられる。
仲間はずれにされる。
からかわれる。
バカにされる。

そんな「どうせ…」という理由が積み重なって、無価値感から居場所を失ってしまうのかも。

能力主義が無価値感と場違い感を助長する

学校だけではありません。

どこであろうと、条件や注文がつけばつくほど、場違い感を覚えやすくなります。

学校での場違い感は、不登校を。
子育ての場違い感は、未婚を。
仕事での場違い感は、ニートを。
人生への場違い感が、生きづらさや自殺を招くのではないか。

会社や企業であれば、能力が著しく劣る場合、左遷されたり、解雇されたり、降格されたりすることはあるでしょう。

しかし、学校や家族や国が、人をクビにすることはできません。
仮にできたとしても、その人たちは一体どこへ行けばいいのでしょうか。

なにかができるかできないかで、「お前はここにいないほうがいい」「あなたはここにいていい」などと、一人ひとりの存在価値をジャッジされる世界なんて、生きづらくて息が詰まりそうです。

どんなに否定しても、自分自身からは逃げられない

私自身、物心つくころからあった無価値感や場違い感を紛らわそうとして、とにかく何か役に立つ人間にならねばと、他人に迷惑をかけてはいけないと、自分を急き立ててきた気がします。

そうやって、自己否定してくる自分の心から、必死で逃げてきました。

逃げて無理を重ねた結果、心や身体の調子を悪くもしました。

私が、私という存在そのものを「場違い」だと否定する限り、どこにも逃げ場はありません。

私は、私から逃げることはできない。
どこまで行っても私なのだから。

空気を読める恥の文化が、場違い感を強くさせる

屈辱的な感覚、自己否定は、もっともネガティブなものです。

それから逃れようと、場違い感を覚えるその場から立ち去ろうとするのは、ある意味で防衛本能。心を守るための、私たちの抵抗なのかもしれません。

同調圧力と能力と自己責任を強く求め続ける限り、どんどん人はいなくなるでしょう。

自分は場違いかもしれないと感じた、心優しくて有能な人から、次々と。

世界に比べて、日本の若者の自己肯定感や幸福度が低いのは、恥の文化からくる場違い感や無価値感によるもの、なのかもしれません。

すべての人に、生きる居場所があるはずだと信じて

あなたが今、居場所がない悩みや、無価値感や、今いるところに場違い感を覚えていて、苦しんでいるなら、確認してみてほしいです。

その場所、その人間関係に、居続けるための条件がありますか。
その条件が、あなたを息苦しくさせていませんか。

その場所、その人間関係は、あなたという存在よりも大切なものですか。

もしかして「地球に生まれてきたこと自体が場違いだった」と、かつての私みたいに勘違いしていませんか。

そんなことはありません。
適者生存。
すべての人に、ふさわしい生きる居場所があるはず。

綺麗事かもしれません。
それでも、だから私は相談業の道に入ったのでしょう。
お一人おひとりの賜物(個性・強み・天与の才能・特異な資質・特性・ギフテッド)を解読し、見出してきたのだと確信しています。

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