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アニメが苦手な私が『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を観て泣きながら愛について考えた話

腫れているまぶたが重い。

とにかく連日泣き続けていた。

それというのもこの3日間、私は『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』にドはまりしていたからだ。

「絶対観て」

テレビっ子の妹にそう言われた私はいつものように「うん観る」と言いつつ、心では「絶対観ない」と思っていた。

というのも、私の家にはまずテレビがない。

なぜかというと、私はテレビ番組を観ないからだ。

第二に、私はアニメーションを観ない。

なぜかというと、多くのアニメが有するあの独特の稚拙さがどうも苦手だからだ。


しかしながら3日前の晩、なかなか眠れずベッドで1時間ほど天井を見あげていた私は妹の言葉を思い出し、諦めてスマートフォンを取り出した。

どうせ眠れないのなら、と小さな画面でNetflixをひらいた。


それからの三日間(全13話なので、毎晩およそ4話ずつ観ていた)、私は文字通り枕を濡らし続けた。

このために仕事をはやく終わらせ、そそくさと夕食をすませ、早めにベッドに入り涙をこぼした。


たしかに、あのアニメ独特の稚拙さはある。

だがしかし、心ならずも私はおいおい泣いてしまった。これが泣かずにいられるだろうか。

主人公の少女が謎に馬鹿みたく強い(可憐でひどく幼いのに元軍人)という設定に興ざめする自分がいても、彼女がけなげに「愛とは何か」を模索し涙する姿に心打たれてしまう。

「孤児で感情というものが一切わからない両腕が義肢の美少女」という、いかにもアニメ的な萌え設定に「いやいや」と半笑いする自分がいても、彼女が感情の琴線に触れるたびに、なぜか「よかった…」と泣いてしまう。

そして彼女のあまりの純粋さとけなげさを見ていると、謎設定をいぶかったり、萌え設定を半笑いする自分のほうが汚れているんじゃないかとすら思えてくる。

なんだこれは。

観ていくうちにそんな技術的なことはすっかり忘れ、第13話(最終話)では嗚咽をこぼしながら泣いた。

そして、こう思った。

愛している。

誰を?

そんなことはどうでもいい。

いくつもの痛みを経てヴァイオレットが愛にたどりついたとき、観ている私たちも一緒に愛にたどりつく。

強すぎる義肢の美少女という設定に説明がいらないように、愛に目的語なんていらない。

昔の恋人が、付き合い始めた当初にこんなことを言っていた。

「俺、『愛してる』とかよく分からないんだよね」

そんな彼だから、私たちは本当にケンカばかりしていた。

なんだかんだで数年をともにしたある晩、遅くまでふたりで飲んだ帰りに彼がふと橋のまんなかで立ち止まった。

そしてこんなことを言った。

「最後に愛は勝つって歌があるけどさ、今日、たしかにそうなのかもなって思ったんだ」


『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の最終話を観終わったあと、私はその夜のことをなぜか思い出した。

彼が「愛」という言葉を私に向けたのは、その2回だけだった。

言葉足らずの彼の「愛」には目的語も主語もなかったけれど、私は橋の上で泣きそうになるのをこらえていた。

しかし、結局おきまりの「もっと」が欲しくなってその後私たちは別れることになった。


だけど今となって思うのは、私にはあのときの橋の上の「愛」で十分だったんじゃないだろうか、ということだ。

目的語も主語もない、なんの説明もない、あの「愛」で十分だったのでないだろうか。

そう思ったが最後、観終わったばかりの最終話とあいまって溢れでる涙はもはや止めようがなくなってしまった。