【勝手に連動企画・僕もその本読んでみました】山本文緒『落花流水』
落花流水。艶っぽい言葉だ。
その艶っぽい言葉を題名に持つ小説の存在を知り、読んでみたくなった。
note上で懇意(?)にさせてもらっているはんだあゆみさんというライターの人がいる。毎日文章を書いておられてすごいなと思うのだが、そのはんださんが山本文緒の『落花流水』という小説の感想を書いておられたのだ。はんださんは山本文緒がお好きのようで何冊も読んでおられるが、そのはんださんをして「戸惑った」「話のキモがさっぱり伝わらない」と言わしめる作品である。
あらすじははんださんの文章に詳しいのでそちらをご一読いただきたい(さぼるな)。この小説は「手毬(てまり)」という名の女性の人生を描写したものだが、その描写の仕方が面白い。7歳、17歳、27歳、37歳、47歳、57歳そして67歳の情景がそれぞれスケッチされるのだが、語り手はそれぞれ異なる。7歳は幼馴染のハーフの少年、17歳は手毬本人、27歳は手毬の母、37歳は手毬本人、47歳は手毬の異母弟、57歳は手毬本人、67歳は手毬の娘だ。この、主人公とは異なる登場人物がそれぞれのパートを語るという章立てに興味が湧いた。
同じ事象でも視点が違えば思いも変わるだろう。また、章の間にはそれぞれ10年のギャップがあり、その間にあったこと、語り手の感情や思いが示されたり示されなかったりする。その辺の見せ方が巧みで面白いのだ。
はんださんも書かれているとおり、主人公・手毬の感情は蓋をされていて、何を考えているのか何を思うのか本文中で明かされることがあまりない。ここに、読者たる我々の想像を受け入れる余地があるのではないか。
小説の中で起こる事象は、身近に起こればそりゃ大変なことばかりだが、お話としてはよくあるといってもいい内容だ。したがってその話の数々を読めば、一定の経験(人生経験あるいは読書経験)を持つ読者には何らかの思いが生じるだろう。それぞれの思いは、小説に登場する語り手以上に多様なはずだ。おそらくだがそれぞれの読者は、自分の環境や境遇に引き寄せたものの見方をするのではないかと想像する。そしてこの小説に対して「何も思わない」という読者はあまりいないのではないか。
手毬の感情や思考の明かされなさ具合は絶妙で、どうやらまったく何も考えていないわけでもなさそうだ。何も考えていないのであれば読者側も「そういう人なのね」で済ませてしまえるのだが、その種の思考停止をこの小説は拒否する。読者の、何らかの思いを、惹起する。
あなたが、この小説に何を思おうが自由だ。でも、何も思わないというのは許さない。この小説は、山本文緒が読者に仕掛けた「思考の沼」という罠だ。おそらくはんださんはその罠に引っ掛かってしまったのだろう。そしてそれは、僕も、だ。
僕もこの小説を読んで罠にかかり、僕自身の感想を持つに至った。僕は、どちらかといえば、手毬に同情的な印象を持っており、それは僕自身の境遇に引き寄せられた感想であると言えよう。
noteの他の文章にも書いているとおり、僕は離婚しており、現在独身である。別れた妻との間には二人の息子がおり、二人とも元妻が育ててくれている(養育費はちゃんと払っているぞ。その辺の屑と一緒にするな)。
離婚は僕から切り出したことだ。結婚して自分の家を持ち子供にも恵まれ、傍から見れば順調だったのかもしれないが、どうにも息苦しくて離婚したいと告げたのである。結婚して初めて気づいたのだが、自分以外の誰かと暮らすということがどうにも息苦しかったのだ。元妻は理解して離婚してくれた。元妻に、そして何より子供たちに本当に申し訳ないことをしたと思うが、離婚自体は間違っていなかったと思っている。勢いなどではないし、不倫や浮気などでもない。
ちゃんと結婚生活を営み、子供を育てることが「正しい」ことだと頭では理解している。僕の両親も、離婚などせず僕と妹を育ててくれた。僕もそうすべきだったのかもしれないが、僕にはその「正しいこと」がどうにも難しかった。元妻は常に正しかった。話し合わなければならないことがあるとき、妻は「だってそういうものでしょ」と言った。常識などにいまいち疎い僕は、そう言われると何とも言えず、それに従ってきた。
手毬の人生の、前半は「正しい」ことを志向している。でも、だんだん行間に、息苦しさが見え隠れするようになり、変容していく様を読み取れるような気がしたのだ。それは僕が感じたような息苦しさに見えて、読んでいてとても苦しかった。なので、手毬が、自分の娘に大麻を吸わせるような男と駆け落ちをするのも、案外すっと受け入れられたりもしてしまうのだ。
律子も手毬もともに出奔するが、その理由はまったく異なっていると思う。手毬は「正しい」ことの息苦しさにあえいだ人生だったのではないかと。手毬をその苦しさから解放したのは皮肉にもアルツハイマーだったのかもしれない。