知多半島
数個まえの投稿で、米子に向かう途中の列車で乗り合わせたおじいさんの話を書いた。
そのおじいさんは若い頃知多半島の常滑にいたのだが、この話を読んだnote友達のはんださんが「常滑に向かえという神のお告げである」という神託(コメントともいう)をくだされた。
それで思い出したのだが、僕は過去に結構な頻度で知多半島やその周辺に行っている。別に実家があるわけでもなく友達や親戚がいるわけでもないのだが、それにしては結構な頻度なのではないかと自分では思うのだ。そしてコンクリート大仏も見に行きたいといえばマァ見に行きたいのだが、それ以外にも知多半島が僕を惹きつける要因がもう一つある。そのへんのことを備忘録的に。
2022年10月 篠島
豊田市美術館にリヒター展が巡回してきた(本当は東京まで行ったのだが台風のせいで泣く泣く観られずに帰ってきたのだ。今思えばくだらない仕事のために無理して帰る必要などなかった。実にくだらない選択をした)ので観に行ったのだが、せっかくだから一泊しようと思い、なんとなく船旅がしたくなったので、三河湾に浮かぶ離島、篠島(しのじま)に宿を取った。その篠島に向かう船の船着場が知多半島にある河和(こうわ)港だったのだ。河和港は知多郡美浜町、篠島は知多郡南知多町である。
河和港から篠島までは、途中日間賀島(ひまかじま)を経由してわずか40分足らずの船旅であるが非常に満足した。日間賀島にもいつか行ってみたいし、別の港からにはなるが日間賀島の北東に佐久島という島もあり、そちらにも行ってみたいものだ。
篠島では民宿に泊まり、ふぐのフルコースを堪能した。コロナの影響もあってか随分安かった記憶がある。
他にも鍋やらあったはずなのだが、飲み過ぎたのか写真が残っていない。
島の南半分は舗装されておらず、翌朝ぐるっと散歩するとなかなかのボリュームだった。夕方に再び船に乗って河和港に戻って帰った。
2024年2月 碧南市藤井達吉現代美術館
碧南(へきなん)市自体は知多半島には属さないが、その次の訪問にもつながるものであったのでここに記しておきたい。
名古屋のヤマザキマザック美術館で展示されていた杉浦非水展を観たくて名古屋に行ったのだがせっかくなのでウェルビー栄で一泊(あっ。僕サウナ好きなんですよ)し、翌日どこへ行こうかと探していたときに、少し離れているが碧南市に美術館を見つけた。そこで開催されていた企画展が面白そうだったのだ。
僕の嗅覚は狙いあやまたず、「顕神の夢―幻視の表現者」と題されたその企画展は非常に刺激的で面白かった。村山槐多や関根正二、萬鐵五郎などがこれでもかとばかりに見せつけてくる(とくに夭折の画家、関根正二の破壊力はすさまじく、その後彼の《信仰の悲しみ》を観たくて倉敷の大原美術館まで行くことになるのだが、それはまた別の話だ)。これはいい美術館を見つけたと思った。
2024年9月 碧南市→半田市
碧南市藤井達吉現代美術館 「松本竣介《街》と昭和モダン」展
青春18きっぷで飯田線乗り通しを企んだこの旅。早朝に豊橋駅にいることが必須になるので豊橋のサウナピアに前泊(あっ。僕サウナ好きなんですよ)した。ただ豊橋に行くだけではつまらないので、その前に、松本竣介の企画展をやっていた碧南市藤井達吉現代美術館に行き、周辺を自転車でぐるっとまわってみることにした。
衣浦トンネル
この碧南市と、三河湾を挟んで対岸にある半田市は、衣浦(きぬうら)トンネルという海底トンネルで結ばれている。日本初の海底沈埋(ちんまい)式トンネルとのことだ。この衣浦トンネル、車が走る部分と自転車歩行者用の部分が分かれている。歩いて渡ることのできる海底トンネルは日本で5ヶ所しかないらしく、ここはその珍しいトンネルのうちの一つということになる。トンネル好きの血が騒ぐというものだ。
衣浦臨海鉄道半田線
対岸の半田市(先述したとおり碧南市は知多半島には属さないが、半田市はれっきとした知多半島だ)は殺風景な工業地帯だ。しかしながら、Googleマップを見ると、JR武豊線東成岩駅に向かって不思議な線路が引かれている。廃線か何かかと思ったのだが、立派な現役路線だ。衣浦臨海鉄道といい、貨物専用路線である。ネットで調べるとちゃんと会社のサイトがあり、時刻表が掲載されている。その時刻に半田埠頭駅近くの踏切で待ち構えると、ディーゼル機関車と貨車が目の前を通過していった。思わぬところで鉄分を摂取できた。
その後東成岩(ひがしならわ)駅までチャリで走り、そこから輪行で、武豊線から東海道線を乗り継いで豊橋に到着した。東成岩駅では、さっき見送った衣浦臨海鉄道のディーゼル機関車と再会することもできた。
これから知多半島に行くとしたら
僕の大好きな洲之内徹のエッセイ「気まぐれ美術館」の第四集『人魚を見た人』に「月ヶ丘軍人墓地」というのが二章にわたって登場する。この「月ヶ丘」というのは名古屋市内にあり、先に書いたヤマザキマザック美術館へ行ったときについでに訪れようかと思ったのだ。この軍人墓地には第二次上海事変の緒戦でほぼ全滅の憂き目に遭った歩兵第六聯隊の戦死者が葬られている。詳述は避けるが、この軍人墓地の他とは違う点は、墓標として戦死者の像が立っているということである。洲之内徹をはじめ、この回の登場人物はそれぞれに、この月ヶ丘軍人墓地のありようにかなりの衝撃を受けたらしく、それは筆致に生々しく現れている。
最初に僕がこの「月ヶ丘軍人墓地」を読んだのは小学生のときで、やはりそれは衝撃的なもので、当時大阪に住んでいた僕は名古屋を訪れてみようと迄は思わなかったものの、その衝撃はこの話を長く記憶する基礎となった。40年近くあとになって、名古屋を訪れる計画の中でふとなにかの拍子に月ヶ丘軍人墓地の話を思い出した。
ところが、これらの墓地は今は月ヶ丘にない。平成7年に道路の拡幅工事のために移されたのである。その移された先は大慈山中之院というお寺だそうで、所在地は知多郡南知多町である。もう、こわいくらいに知多半島に引き寄せられている。