私の入れ物はどこにあるのか。
数日前のできごと、普段何気なくTwitterの画面が妙に騒がしい。
最近コロナの影響で、コロナ関連の記事はバズり、ワニの影響で1イイね◯◯案件の需要も高騰し、SNSの光と陰を交互に感じている。
そんな中、その騒がしさの発端はなんなのかをスクロールして探っていた。(いつも気になるとすぐ調べたくなる症候群。通称:ググり症)
すると、たどり着いた先がこのツイート。
「????????」
すぐに理解することができなかったのですが、その後に投稿された『note』でようやく腑に落ちた。
SNSクリエイターであるわたらいももすけさんと、インスタグラマー・YouTuberであるこんびにこさんが同一人物だというなかなか勇気のある発表。
私は全く気づいていなかったのだけども。←
どちらの存在も知っていたがゆえに、妙に合点がいったのもこれまた事実。
ほんと天才…
そんな中で、思わず自分自身と重ね合わせて読んでしまった一文がある。
僕にとっては「こんびにこ」も「わたらい」も入れ物であり、アウターのようなものです。その日の気分でダウンジャケットを着ることもあれば、ダッフルコートを着ることもある。その日、自分が一番自分らしく生きられる人格を選ぶ。そんな感覚でしょうか。
どちらも紛れもない自分自身で、その日自分が一番自分らしく生きられる人格を選ぶ。
私はこれを自身の中で『悪いこと』のように罪悪感を感じながら生きていた、そしてどこかで違う自分も認められたいという『欲求』も入り混じっていた。
夏でも冬でもいつでもきられるアウターなんてないのにね。
どこかでそんなアウターを作れるんじゃないかって、期待を寄せられるたびに頑張って、自分に期待して疲れて、希望を持って、現実を見る。その繰り返し。
何者でもない自分を突きつけられる気がして、前を見ることさえ怖くなる。
でも、それでもいんだって、そっと背中を押してもらえた気がした。
何者でもないの裏側には、自分のなかの表現者としてなにかを発信したいという『欲求』が隠れていたのだ。
自分のなかでも、言葉で表せられる部分と表せない部分がある。この、表せれない部分がまだ自分自身の可能性なのだと思っている。
まだまだ、腑に落ちるものは見出せていない。だけど、今の私も紛れもない私自身なのだろう。
入れ物を探すも作るも、塗り替えるもひとつ。
選択肢はなんだっていい。
今日はお気に入りの緑のトレンチコートを着てでかけてみよう。