ちやほやされたい好かれたい
自分は価値がないと感じる時
例えば職場や学校で、
自分には話しかけられないのに
同僚、後輩、同級生のあの子はいつも周りに人が集まってくるよな
羨ましいな、自分には何の価値もないのかな
って思うかもしれない
人気がある人というのは、
周りを喜ばせてる人なので
自分に比べて人気なその人が
より周りを喜ばせてるという構図になる
自分より人気なあの人が気に入らないなら、
それは自分があの人よりも、周りを喜ばせる力が足りないってことだ
人気というのはさまざまな種類がある
見た目が可愛い、キレイなら動物園でも人気だ
話が面白いなら、それは人にとって大切な笑顔を作ることができるということだ
ほめ上手なら、自己肯定感を上げてくれるのでご機嫌になるし
どんなに悔しくても、
自分が人から好かれないなら、
人を喜ばせる力が足りてないってことだ
で、それが嫌な場合は、
どうしたら人を喜ばせることができるだろうか?と考えるようになる
そして媚びた態度になり、ますます嫌われるんでドツボにハマる
人を喜ばせるためには、
媚びてはいけないし、結構奥が深いんだ
だからますます人から好かれる人の価値が上がる
どこに勝機を見出すのか?
それは、
自分の勝てるポジションを探して、
得意を研ぎ澄ます
うまくいっている人に
頭を下げて教えを乞う
頭を下げるのが嫌ならとことん研究する
人から感謝されたことや、
褒められたことを伸ばす
(髪がキレイと言われたら美容室に行く)
人から好かれるためにできることは無限にある
また、逆説的なことで言えば
好かれるという欲を捨てるという方法もある
好かれなくてもいいって言う、
拗ねにも似た感覚だ
ただし拗ねてはいけない
拗ねと言うのは「ふん、どうせ私なんて取るに足らない存在なんだ」と怒ること
誰に怒ってるんだか、報われない戦いでしかない
好かれなくてもいいというのは、
相手の存在を超えるということ
「好かれなくてもいい。だって私が私を肯定するから。」って言う自分を自分で守る覚悟のことだ
人から好かれませんけど、だから何?
って言う態度だ
拗ねにも似てるが、
拗ねてはいけない
拗ねて相手をコントロールしようとするのではなく、拗ねて相手にわかってもらおうとするのではなく、欲を捨てて相手の存在を超えるんだ
人から好かれる研究をするか、
人から好かれる欲を捨てるか、
どっちでも勝ち目はある
あの人気のあるアイツに勝てる
で、ちやほやされたい、好かれたいの原点に立ち返ると
好かれたところで、
それは他人に良い思いをさせてるだけのことだ
好かれたところで、
それは一過性のものに過ぎない
見た目が可愛いから、と言う理由でちやほやされるのは若い時だけだ
話が面白いのは、年をとっても通用するかもしれない
でもそれが全てではないんだ
好かれたところで、
その真実は、「快の感覚」に人が寄ってきてるだけであり、好かれたところで「相手にとっての都合のいい人」ということなんだ
だから、好かれることっていうのは
そんなにあなたを喜ばすものではない
それは「好かれた私」を得る前の幻であり、
好かれてしまえば今度はそれにうんざりするようになるんだ
ちやほやされたい、好かれたいというのは、
本当は大したものじゃないんだ
それよりもあなたが学び勝つこと
それよりもあなたをただ認めてくれる人
そっちの方が大切だ
2024/10/31 ANNA