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12年経ったね。

あの日からもう12年かぁ。
当時は茨城の実家に住んでいて、父はその前年だか前々年だかに脳内出血で障害を負い、60ちょいで視力がおかしくなって、ボケというか、性格と認知が少し変異して、体も少し不自由になっていた。
母は心臓の血管が詰まりかけて、まさに心バイパス手術を数日後に控えて入院していて、私も数年前に心臓のカテーテル手術(WPW)をしてからフリーターをして実家に寄生していた。
おいおい今考えても限界な家だな。

当日は母の見舞いのために栃木にある大学病院(栃木の大学病院つったらもう大体二つに絞られるかもしれないが、私大の方だ)に見舞いに来ていた。
ここは昔からの馴染みの病院で、その時は病室ではなくロビーのスタバで落ち合っていた。
天井近くまでガラス張りの壁があるカフェスペースには人が多くて、やっと席に座り、二人で「部屋がおばちゃんばっかよ。うるせーのよ。まぁでも楽しいわ、ワハハ」とか話してた。
ちなみにこの日、見舞いの後に宇都宮に遊びに行こうと、セカンドバッグの中には趣味の品が詰まっていた。ドールです。

ロビーにはお見舞いのお客さん、入院患者、会計・薬待ちの外来患者、半ば駆け抜けるような看護師さん、スタバにドリンク買いに来てるお医者さん、その他いろんな人がいた。テレビはNHKが固定だった。

震災時刻、大きな窓の横にいた私たちは、窓の揺れで気がついた。
「あれ、何か窓揺れ…?」
「え?」
そんなこと言っていると、窓が波打った。
本当に波打ち始めた。揺れなんてもんじゃなかった。
「離れよう!!」
そう言って席を離れるうちに揺れはひどくなって行った。ロビーは混乱して、誰かが「外!そとそとそと!!外逃げろ!!」と叫んでいた。
外に出るとすぐにある噴水の前に、みんな居た。
看護師さんやお医者さん、患者も、タクシー運転手も、事務の人も、みんなしゃがんで、呆然としていた。

揺れが収まると、とりあえずみんな建物内に戻った。停電もしてない。しかしひどい揺れだった。つきっぱなしのNHKが速報を伝えている。
お医者さんや看護師さん達は持ち場に戻って行ったが、お見舞いの人などはテレビを注視していた。
怖かったね、すごい揺れだった、急いで帰ろうと言う言葉があちこちでサワサワと広がっていた。
私はバスと電車で来ていたので、時間が来ないとそもそも帰れないので、ロビーで母とまた座ったが、震度が出ると自宅の方が揺れていた。
この時もうTwitterはやっていたので、Twitterなどのネット情報も確認していた。
テレビでは東北への中継が始まり始めていた。「お父さんに電話しよ。大丈夫かな」
と携帯で電話するものの、回線はすでに繋がらず。
母の携帯も同様だった。周りの人もそうだったのだろう、携帯を持って困り果てている人が見受けられた。
母が「公衆電話だ!」と閃いたので、当時既に台数を減らしつつあった公衆電話へ走った。
既に列が出来ていて、並んだ。
固定電話にかけて、しばらく待つと父が出た。
「お父さん!だいじ?!」
「はぁ?まぁそこそこ揺れたけどな、塀が崩れたのと茶碗割れたくらいで、まぁだいじだわ(だいじ、は下野の方言で「大丈夫」の意)。飯食ったし風呂も洗ってあるわ」
「あ、あぁそう…まだ揺れるかもってテレビで言ってるから!気をつけてよ!?」
「ハイハイ」
父は雑であった。

ロビーに戻ると、テレビの中では津波の光景が放送されていた。
この時、Twitterか2ちゃんで、東北からの書き込みが途切れたのを「東北が息してない」と「東北が消えた」と言っていたのをボンヤリと、声に出して読み上げてしまったのだが、母が「本当だよ…」と呆然とテレビを見ながら頷いた。

だってテレビには、明らかに海から距離があるであろう畑に波打ち際というか、波があった。
こんな畑に波があったら、じゃあ海は?海の近くは?と思った。テレビではアナウンサーが必死で「逃げてください!逃げてください!」と言っていたように思う。

20歳そこそこの小娘には、何が起こっているのか把握はしきれなかったが、これがとんでもない事態であることは分かった。


さて次の問題は私の帰宅だった。バスが来ないかと待ってみたが、どうやらなくなったようだった。
母が、「タクシー代あげるから、タクシーで帰りな!」と言ってタクシー乗り場へ行った。
偶然最後の一台に乗れて、「あの、遠いんですけど…」と実家の位置を伝えると、運転手さんは「えっ!偶然ですね、僕先日までそっちで運転してたんですよ!道分かるので安心して下さい!」と言ってくれた。「よかったですね〜今日はこれで終わりって会社からも引き上げ指示出てたので、もうすぐタクシーなくなるとこでしたよ〜」と話しながら、田舎道を走った。
もう信号はどこも消えていて、遠くに見える国道はテールランプが繋がっていた。
「あっちの道行ったら進まないんで、暗いですけど」と言いながら農道を走ってくれた。
栃木は道が良いので農道でもそんなにガタガタはしない。たすかる。

自転車を止めた駅まで送ってもらって、お気を付けて帰ってくださいとお互いに言い合う頃には、空は暗くて星が出ていた。
街路灯はついていたし、近くのスーパーも電気はついていた気がする。
急いで帰る道すがら、古くて放置されていたパチンコ屋の大きな大きなシャンデリア(バブル期の遺物だ)が割れていたし、車販売店の窓も割れていた。何なんだよこれぇ!と思いながら家に向かう。
家の横の塀は半分崩れていて、デカいブロックが倒れていたけど、家は無事だった。
急いで家に入ると、父が
「俺もう寝るぞ」
とマイペースを貫いていた。マジかよ。
「塀!倒れてるねぇ!他は?!」
「食器棚から食器出て割れたけど片付けといた。俺もう寝るから」
「片づいとらんが?!!」
父は寝た。私は食器棚あたりの角をどかして飛び散ってる破片を掃除した。

その後ノートパソコンを起動して、携帯との二刀流で各所との連絡と情報集めをした。

ちなみにこの時彼氏(現在の旦那)はお国の仕事についていた。お互い震災に遭い、あっちは待機、こっちもバタバタしていて軽い言い合いになった(メールで)が、ぷつりと途切れたと思ったら数時間後、大量の瓦礫の写真が送られてきて「!!!」となった。
高所恐怖症だがヘリに乗せられ現地に行ったらしい。

そんな事もありつつ、海に近い地域に住む姉から避難させてくれと連絡が来たり、東京に住む叔母達と連絡を取りあった。
まだこの時は水道が通っていた。電気はずっと途切れなかったが、水は翌朝止まった。

姉夫婦が来て、東京の叔母達も食糧を持って来てくれた。
ここからは怒涛すぎてよう覚えていない。
現地入りしてる彼氏とか、何度も何度も揺れる余震とかで寝不足だったように思う。確か布団じゃなくてPC付けっぱなしでこたつで仮眠した。
父?布団でぐっすりすやすやだったよ。マジで。
彼氏は現地で作業すると帰ってきたらしいです。数ヶ月後にまた支援に行きますけどもね。

翌々日だかにバイト先でパートさんや社員の皆んなと散らばった在庫や、店内の掃除をしたなぁ。展示用ガラスが2枚割れただけで住んだよ〜と店長が安堵の顔をしていた。
裏手ではSVが、県内で唯一まともに無事だった我らの店舗で県内と隣県の情報集めてた。大変だったろうなぁ。
この時パートさんが「停電と水止まってるっしょ?!うち農家で自家発電と水あるから、お米たくさん炊いた!食べな!!」って持ってきてくれて、優しさに感謝した。

節電のために輪番停電になるかも、って日が母の手術日で、みんなで車乗る前に「停電した時の為に」ってお米炊いたりして行った。
病院はソーラーパネルもついてたし、病院だから停電はしてなかったけど、節電で薄暗かった。
漫画読んだりして終わるの待って、その後帰ったら無事電気ついてた。後で「茨城も被災してんのに輪番停電させんのか?!」という声が政府に届いていたのを知った。
いやほんと海の方とか大変だったのに茨城を被災地域から外したやつなんやねん。一生怨むぞ。

近所のスーパーは数日後に外で店内の在庫売ってた。聞いたら天井落ちてて危なくて立ち入り禁止だよって事だった。
このスーパーの2階の、小型ゲームセンターで過去に働いていたのだが、これをきっかけに無くなってしまった。
震災後ちょっとしてから荷物が運び出されるのを見送ったけど、あの筐体たちはまだ何処かで働いているだろうか…。

街の中は節電で暗くなって、どこの店も大体品薄で、入場制限してて、中々くらかった。全体的に。
余震も毎日毎日、よく揺れた。
揺れるたびにこたつの中に猫を仕舞ってたら、猫なのに地震の時はテーブルの下に入る偉い子に育った。えらい。今でも地震で揺れたらテーブルの下に入る。えらいぞう。

あの時、正直自分は大した震災被害者ではなかった。状況だけを見れば。
でもストレスは中々だったなぁ。凄く疲れた。

緩やかに日常に戻ったけど、結局近所のスーパーは潰れた。隣町に大きな新しい店舗があったので、仕方なかった。
無理矢理直した後激安スーパー入ったけどな。

他も震災を機に色々変わって行った。
個人的には、ずっと確執のあった姉とこれを機に距離が近くなった。
あ、彼氏だった人は震災支援を終えたあと、お国の人を辞め、民間人に戻りました。
今はSEの人をやっている。パソコン3台くらいつけてる。

んで一年後、ちょうど一年後。
長女の出産に重なった。
予定日超過して入院してた。母も入院してた病院だ。
3.11の日にも余震で揺れていた。一年だねとか気にしてられなかった。
震災から丸一年と一日後、長女が生まれた。
出る気になったらスポン!と生まれたため、誰も立ち合いに間に合わなかった。おいおい。
なので我が家は3.11の思い出と共に、娘の誕生日を祝うのである。

長女も、もう11歳になる。4月から最高学年だ。
この後夕方から旦那と映画を見に行くが、原作漫画を読んでいたブルージャイアントの映画を観るのかと思ったら、トップガン見るんだそうです。えぇぇ、そっちなの?まぁ好きにすれば良いけどもさ???洋画好きだなぁ…。

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