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【今日の気づき】私は話のゴールが自分に合ってないと、ネームが描けない


主人公が「幸せになろうとしている」じゃないと、私はネームが描けないらしい

ここ最近、打ち合わせ・プロット段階でOKが出たのに、ネームで頓挫する件が相次いでいる。
新企画だけならともかく、連載の打ち合わせでも、となると、事態は申告だ。何かがおかしい。
打ち合わせでは双方意見を出していいねいいねと盛り上がり、プロットにまとめるとここが違う、あそこが違うと少しずつ話がずれ、たまにプロットがOK出てもネームで難航。なんとかひねり出すもの「やっぱり違う」と言われて、打ち合わせに逆戻り。
そりゃ、打ち合わせで「いいね」と言っていたことはどこかにすっ飛んでいなくなってしまったネームはエラーしかないよな。

いろいろ試行錯誤していて気付いたのは、どうも私は「主人公が『幸せ』をゴールにしている」話なら描ける。だけど最近難航している件では、編集さんは、エンタメとして主人公にいろんな試練や予想だにしない展開を入れたいんだろうな。すると主人公の自主性は、邪魔でしかないんだろう、と感じる。
そうして自主性とスリルを足したり引いたりしているうちに、いつの間にか主人公が幸せを目指している要素が全部削り取られてしまう。
編集さんが言うように、スリルや未知の世界を描きたいなら、それでいいのかもしれない。
でもそうすると私自身が、この話がどこに向かってるのか、主人公がなにをしたいのかが全くわからなくなり、途端に描けなくなってしまう。
おそらく、主人公が「スリルを伴う、自分が知らなかった世界を他人が見せてくれる」は、私にとっては主人公が「自分を見失う」という不快以外のなんでもないんだろうな。
私が「ラブコメでオラオラのヒーローに振り回されて『私、どうなっちゃうの~!?』という展開はストレス」ということは、漫画ソムリエの東西サキ先生に既に見抜かれている。
はい、そのとおりです。どんな大ヒット作でも、そう。

コルクでは「プロットは簡潔に」と言われたけど…簡潔なプロットだと自分に合わなくても書けてしまう問題

2024年前半の半年間で受けたコルクマンガ講座では、「プロットは簡潔に」と言われ、私はそれまで自分が書いていた小説みたいなプロットを封じられた。
講師のごとう先生はご自身のポッドキャスト「漫画家ためになるラジオ」で、ごとう先生自身はむしろプロット否定派と言っていた。

https://www.youtube.com/watch?v=tZg6XMrTFT8&list=PLR8TANvbd17EM66wLzVnj_js4cBIQZ8QR&index=34

「出さなきゃいけないから出すけど、箇条書き。あとはもうネームに行きたい」らしい(要約)。
でもね…聞いてて思ったのだけど、「それって打ち合わせやメールに書いて終わる話じゃない…?」と。
打ち合わせやメールで
「今回はこうこうこういう話にしたいっす!」「りょ!」
「この流れでこういうことあると、いいっすよね」「いっすね!!!」
で終わったあと、ネームに入る前のものを、テキストで縦横無尽に書けるうちにできるだけ広げて
「こういう物語を漫画するけど、いっすよね?」
と確認してOKをもらって、安心してネームに起こしたい
そこには感情の流れも事象も全部書いているから、私にとってプロットは「安心してネームを描くため」の「ネームの設計図」なのだ。
だけど、箇条書きプロットだとそれは「話の企画書」とか「デザインのラフのラフ」くらいで、ネームに起こすための解像度がまったく掘り下げられていない。
ここが問題で、コルクで提唱していた「シンプルなプロット」は、感情の流れまでは書いていないので、自分に合わないものでもプロットだけなら書けてしまうっぽい。言うだけタダみたいな。

結果、このプロットでOKをもらったとて、ネームでは自分が書いたプロットの解像度を自分で上げることができず、だけどこのプロットでOKをもらったのだからこのプット通りに書かなきゃいけないと自分の首を締め、「こういうことですか…?」と提出すると「違います」と言われてしまう。
やっぱり私は、感情込みの詳細なプロット(文字)じゃないと、その話が破綻してるかどうかがわからないらしい。

自分に合うか合わないかは、感情を乗せてみてやっとわかる説

多分なんだけど、プロットとネームに求める役割が、私と編集さんですれ違ってるんじゃないかと思っている。
プロット=文字で書くもの
ネーム=絵で描くもの
というイメージがおそらく一般的だと思うのだけど、以下、まったく逆のパターンで漫画を描いているお二人を挙げてみる。

・ネームを文字で書くという小林有吾先生

・プロットを絵で書くというためこう先生の記事

私のプロットはどちらかというと、小林先生に近く「どこで何を思ってなにを言わせるか」を全部文字で書き表しておきたい派。
ネームにするときは、それを絵で省略するから所定のページに収まる。
だからプロットを書いたら、改行でナンバリングして分配していけば、ほぼそのまま「ネームの下書き」になる。

ためこう先生は「プロットを絵で提出するようになってからボツがなくなった」とおっしゃっていたのを見たことがある。
これ…イメージをそのままするする絵にできる人限定じゃねぇか…?
もちろん手を動かしてたほうがイメージが溢れてくる!って人はいると思う。実際に手を動かすことは脳の刺激になるしね。

でもね、私はね、絵を描こうとすると、感情や事象の正誤性を確認しながらイメージをふくらませるためのリソースが奪われるの…!文字のほうが自由に試行錯誤できるの!!!
修行が足りないだけだったらごめんね!!!でもできないの!!!!

イメージを絵で出力するのと、文字で出力するの、どっちが楽か問題

右脳派・左脳派みたいなことがあるけど、私は実は、文字で出力するほうがめっちゃ楽。
絵も嫌いではないけど、短期記憶が多分そんなによくないというか、絵にするまでに余計なことをごちゃごちゃ考えているうちに最初に考えたことを忘れてしまう。
だから私は浮かんだイメージを極力先に文字に出力して、OKかどうかを確認してからネームにしたい。
でも多分、出力だけじゃなくて入力にも得手不得手があって、プロットでうまくいかない編集さんはおそらくイメージを「絵で入力するほうが得意」「文字で入力するのが苦手」なんじゃないかなーとうっすら推測している。じゃなきゃ文字でのやりとりでこんなに齟齬が生まれるはずがない。
いや、他の編集さんが遠慮したり譲歩してくれてるんだとしたらすいません…。

でもまぁ、それ言っちゃうと、結局は相性よね、ってことになっちゃうよね。
人間的な相性はどれだけ円満でも、イメージのとらえ方の相性なので…なんともすべてうまくはいかないなぁ…
できるなら、この相性の悪さをすり合わせて楽しく仕事をしたい。。

まとめ

  • 私は「幸せを目指してる主人公」じゃないと描けない

  • 絵が楽か、文字が楽かは「人による」し「相性がある」

  • 性質の違いを加味して、相性の個性とうまく付き合いたい

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