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キャスリン・ストック『マテリアル・ガールズ』(1)
英サセックス大学の哲学教授だったキャスリン・ストックの『マテリアル・ガールズ――フェミニズムにとって現実はなぜ重要か』の内容を紹介したい。ただし、この重厚な内容を1回で紹介することは、短文家の私にはとても無理なので、数回にわけて紹介できればと考えている。(なお、私事で恐縮ですが、現在非常に多忙なため、第2回がいつになるかは保証できません。)
現代のトランス活動家のジェンダーイデオロギー(著者の言う「ジェンダーアイデンティティ理論」)を厳しく批判した本書が2021年に出版されると、トランス活動家たちはまさに本書で批判された通りの「藁人形論法」でもってストックに対する激しい人身攻撃を行い、彼女は大学教授の地位を追われることになった。トランス活動家の政治的主張に関する批評がトランスジェンダーの人々に対する実際的な攻撃(トランスフォビア)にすり替えられ、それに対する反論は「ノーディベート」で一切議論の対象にしないという、こうしたキャンセル(排斥)行動による言論封殺は欧米諸国のトランス活動家の常套手段となっており、すでに日本にも入ってきているが、彼らの行動の背後にある思想や理論とはいかなるものであるのか、本書は冷静に読みといたものである。
本書の内容の紹介に入る前に、最低限の基礎知識を整理しておいた方がいいだろう。まず、最も重要な区別として、性同一性障害(GID: Gender Identity Disorder)とトランスジェンダーの区別が挙げられる。これについては、「性同一性障害特例法を守る会」が書いて下さっている「性同一性障害ってなに?」という記事が参考になる。
そこでも触れられているように、日本で2003年に成立(2004年施行)した性同一性障害特例法では、第2条で、次のように定義されている。
この法律において、「性同一性障害者」とは、生物的には性別が明らかであるにもかかわらず、心理的にはそれとは別の性別であるとの持続的な確信を持ち、かつ、自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意志を有する者であって、そのことについてその診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の意志の一般に認められている医学的知見に基づき行う診断が一致しているものをいう。
これに対して過去10年間で広まった「トランスジェンダー」という概念は、確立した定義はないようだが、簡単に言うと、「生物学的性別と異なるジェンダーアイデンティティを持つ者」と言ってよいだろう。トランス活動家たちは、「生物学的性別」の代わりに「出生時に割り当てられた性別」というよくわからない言葉を使っているようだが、気にすることはないだろう。言葉は誰にでもわかる言葉を使うべきであろう。また、日本のトランス活動家たちは、「ジェンダーアイデンティティ」を「性自認」と訳したがっている。「アイデンティティ」なら自己選択できるものとできないものの双方が含まれるが、「性自認」であれば、自らの意志で「自認」するだけでいいという含意がある。いわば性別自己決定権であり、こうした性自認至上主義に基づくトランス活動家たちの運動がトランスジェンダリズムあるいはジェンダーイデオロギーと呼ばれるものであり、本書の批判対象となっているものである。
「トランスジェンダー」という概念は非常に幅の広いものなので、性同一性障害者もその一部に含まれるという見方も可能である。しかし、現代のトランスジェンダー運動を牛耳っているのは、性自認至上主義者たちであり、彼らの要求と性同一性障害者の要求は中身も方向性を異なるうえ、トランス活動家の中には「くたばれGID!」といった表現で性同一性障害者を侮辱する人たちもいるらしく、性同一性障害特例法を守る会では、「性同一性障害者はトランスジェンダーではない」という主張を行っている。
日本で性同一性障害特例法が制定された翌年の2004年、イギリスでは「ジェンダー承認法」という法律が制定され、世界で初めて、性別適合手術なしに法的性別を変更できるようになった。ただし、この時点では、手術やホルモン治療を受ける必要はないが、2年間希望のジェンダーで生活したという実績と、医師による性別違和の診断書が必要だった。その後、イギリスで同性婚の法制化が実現したことで、LGBTに関する同国最大の運動団体であるストーンウォールは以後の運動目標をトランスジェンダーに定め、2015年に「変革のためのビジョン――トランスジェンダーの例外なき受容」というキャンペーンを開始し、ジェンダー承認法から性別違和の医学的診断と2年間の生活実績という要件を削除し、「自認」だけで性別変更ができるよう法改正しようという運動を展開した。このような性自認至上主義に基づくトランス活動家の運動の拡大と並行して、イギリスではトランスジェンダーの人口が急増し、「トランス女性は女性である」と言われ、それについて「議論すべきではない(ノーディベート)」とされ、議論すること自体が「トランスフォビア」と見なされキャンセル(排斥)行動の対象となるようになっていった。
基礎知識についてはまだまだ論じるべきことも多いのだが、「エスケー」さんの「LGBT問題の基礎知識」も参照して頂くことにして、ここから本題の『マテリアル・ガールズ』の紹介に移りたい。
まず初めに、誤解を避けるためにも強調しておきたいのだが、著者ストックは、ジェンダーイデオロギーを厳しく批判しているが、トランスジェンダーの人々を批判しているわけではなく、むしろトランスの人たちは安全への権利や尊厳ある生活を送る権利において、完全に同等な権利を持つことを主張しているのである。現在のトランス運動(トランスジェンダリズム)は(生物学的)女性にとってばかりでなく、トランスの人たちにとっても、社会全体にとっても有害なものであるからこそ、ストックは批判しているのである。
ストックはまず、現代のトランス運動には以下の4つの公理があると指摘する。
① すべての人は、ジェンダーアイデンティティという内面状態を持っている。
② トランスジェンダーは、内面のジェンダーアイデンティティと生物学的性別が一致しない人々である。
③ 生物学上の性別ではなく、ジェンダーアイデンティティが人を男性または女性にする。
④ ジェンダーアイデンティティを承認し、法的に保護すべき道徳的義務がすべての人に生じる。
これら4つの公理を掲げる立場をストックは「ジェンダーアイデンティティ理論」と呼んでいる。この記事でここまで「トランスジェンダリズム」とか「ジェンダーイデオロギー」と呼んできたものとほぼ同じと考えていいだろう。
第1章では、ジェンダーアイデンティティ理論の形成に与って力のあった思想家とその思想の歴史が簡潔に述べられている。そこではジュディス・バトラーやジュリア・セラーノらの思想が取り上げられているが、ここでの紹介は避け、今後の論述の中で必要に応じて取り上げることにする。
第2章「性別とは何か」では、性別二元論を擁護している。我々は近年、「性はグラデーションである」とか、「連続体である」、「社会的に構築されたものである」などという言説を、(意味はよくわからないまま)耳にタコができるほど聞かされているので、「性別二元論を擁護」と聞いただけで、「何たるアナクロニズムか」と思った人もいるのではないかと思う。しかし、読んでみると、私には十分説得力のある説明だと思えた。
ストックはまず、「性別とは何か」という問いに対して、「配偶子による説明」「染色体による説明」「クラスターによる説明」の3つを挙げる。「配偶子による説明」は有性生殖をおこなうすべての生物に当てはまる説明方法で、「小さい配偶子を作る発生経路を持つ生体」をオス、「大きい配偶子を作る発生経路を持つ生体」をメスと定義する。「染色体による説明」は人間の男女に焦点を当てたもので、細胞内に「Y染色体を持つ人間」を男性、「Y染色体を持たない人間」を女性と定義する。ただし、稀に生じる性分化疾患(DSD)の場合は特別な考慮が必要となる。「卵精巣性疾患」では卵巣と精巣の両方の組織があるため、ある細胞にはY染色体があるが、ほかの細胞にはないため、分類の決め手が難しい。XY染色体を持っていても「女性化」してしまうことが多いアンドロゲン不応症や、XX染色体を持っていても「男性化」した外観を持つ先天性副腎過形成症についても同様である。「クラスターによる説明」とは、形態学的特徴の比較的安定したクラスターと、それらの特徴を生み出す基礎的なメカニズムという観点から定義されるが、特定の特徴や特定のメカニズムは、個体がその種のメンバーとなるための不可欠な条件とはみなされず、特定の特徴やメカニズムを欠いたとしても、重要な特徴やメカニズムを十分に持っていれば、その個体は依然として当該種のメンバーとみなされる、ということである。
以上の(もっと詳しい)説明を私が十分理解しているわけではないが、この中では「クラスターによる説明」が最も妥当な分類法だと思われる。ほとんどの分類には例外がつきものであって、例外があることが直ちにその分類を無効にするわけではない。人間も動物の一種であり、身体を基礎にしている以上、生物学的な説明法に基づく性別二元論はやはり妥当であると思う。生物の中には性転換する種もあるが、だからといって、すべての生物の性別がグラデーションである、などと主張する生物学者はおそらくいないだろう。なお、性別適合手術とは、文字通り反対の性別に移行できる手術ではなく、生殖腺の摘除と外性器の外観変更を行うものにすぎず、生物学的な性器と同じ機能や生殖能力が得られるわけではない。だから「大したことはない」と言いたいわけではない。その手術によって幸福度が増す人にとっては重要なことである。ただ、生物学的に文字通り性別変更ができるわけではない、ということには留意しておきたい。
一方、「性別は社会的に構築されたものだ」という性別否定論の知的巨人の一人はアメリカの哲学者ジュディス・バトラーである。個人的なことを言わせてもらえば、バトラーの『ジェンダー・トラブル』(原著は1990年、邦訳は1999年)を私は2000年代の初めに買って、ずっと私の本棚の片隅で眠っていたのだが、数年前の引越しに伴う本の大量処分の際に、ついに1行も読まないまま手放すことになった。もっとも難解で名高い本書を読んでいたとしても、理解できた自信は全くないのだが。ストックによれば、性別は完全に社会的に構築されたものだというバトラーの議論の前提は、いかなる二元論も必然的に「規範的」にならざるを得ず、それゆえ「排除的」にならざるを得ないというものだが、上に述べた性別の3つの説明モデルのどれにも、そのような規範は組み込まれておらず、価値判断とは無縁である。バトラーの性別二元論の否定の論理は、論理的にはあらゆる科学的分類に拡大可能な一般的根拠に基づいているが、そのようなあらゆる分類の否定論など成り立つはずはないとストックは示唆している。
ところで、現在のジェンダーアイデンティティ理論の源流の一つは確かにバトラー理論に求められるが、実は他にも多様な源泉があって、それらは互いに矛盾する側面を持っている(後述)。バトラーが、キャンセル行動を広範に伴う現在のトランス活動をどのように見ているのか、興味のあるところである。バトラーはユダヤ人であるが、イスラエル政府のガザ虐殺に抗議する人々を「反ユダヤ主義」として言論封鎖しようとする動きに対しては、断固として抗議し、イスラエル政府のジェノサイドを公然と批判しているのである。(続く)