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叩く人が悪いのに、叩かれる人が追放されるのって、いじめの処置とよく似ている

こんにちは、最近ドラマ『ミステリと言う勿れ』にハマっている、エイです。

原作漫画から読んでいるのですが、印象的なセリフが多くて心に残る名作だなぁと毎回思っています。

その中でも一番記憶に残っているのが、こんな話です。

「海外のとある国では、いじめっ子を病んでいるとして病院でカウンセリングを受けさせる。でも日本では、いじめられっ子を転校させたりしてどうにかしようとする。でも結局次の学校でもうまく馴染めなくて損ばかりする」

抜粋ではないので一字一句同じではありませんが、こんな内容です。

明らかにいじめっ子の方に非があるのに、いじめられっ子が相手に合わせなくちゃいけない。
理不尽だなぁ、と私も思っていました。

そんな中、アメトークというバラエティ番組で、とある芸人さんの好きなバンドへの知識が薄すぎる、ということでネット上で叩かれアカウントが凍結された、という事件を聞きました。

すると私の頭の中の整君(『ミステリと言う勿れ』の主人公)がひょいっと出てきて「あの〜、ちょっといいですか〜?」ともじゃもじゃ頭で登場してきたわけです。

「叩く方が悪いのに、どうして叩かれる方が追い出されるんですか?」

私たちは「いじめ」と聞くと無意識に学校のクラス、子供の問題を想像しがちですが、実は「いじめ」は年齢なんて関係なく、でかい図体の大人たちの間にだってはびこっています。

ただそれが「炎上」だったり「人間関係の不和」だったり「変わり者」だったり。

いろんな言葉に置き換えられているだけなんです。

今日はそんなお話です。


「意見」と「批判」は境目が難しい
〜最大の決め手は「人格否定」があるか〜

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ただ、「意見」と「批判」というのは、非常に境界線を引くのが難しい、という事実はあると思います。

例えば
「この記事つまんない」
というコメントは、批判でしょうか、意見でしょうか?

微妙なところですよね。

「この記事は面白いの域に達していないので、もっと工夫を凝らして欲しい」
という意見としても読めますし、

「こんなつまんない記事書いてんじゃねーよ時間の無駄」
という批判としても受け取れます。

明確な見分け方があるとすれば、「人格否定があるか」です。

例えば、
「この記事つまんない。お前文章書くの下手だな」
これはただの批判です。
悪口です。
「文章を書く」という能力、相手の技量そのものを否定しているからです。

「お前〇〇〜?」
のように、相手にロックオンして言葉を言う場合、批判のことが多いような印象があります(これは個人的な感覚ですが)。

最近見かけたのは、「未婚率の上昇」に関する動画内のコメントです。
「はいはい、そうやって言う女に限って理想が高いんだよね。あんた彼氏いたことある?」

これは完全に批判、悪口です。
「そうやって言う女」まではちょっと判断が難しいところです。
ここまでは、ある程度の集合体を指している可能性があるからです。

ただし、「あんた彼氏いたことある?」は明らかに個人に向けての攻撃です。

これがどこぞの国なら精神病院&カウンセリング待ったなしですね。

誰もが不快にならないコメントは難しい
とりあえず主語に気をつけよう

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世の中には、読むこと見ること聞くこと、全部が自分の批判に思えてしまう人もいます。

そんな人達も含めて、誰一人として不快にならないようにしゃべったりコメントしたりするのはあまりに難しいことです。

ずっと気にしていたら、あなたが心を病んでしまうかもしれません。

大事な心構えは、「誰か”一人”を特定して傷つけない」ことだと私は思います。

「男は〇〇だ」「女は〇〇だ」は正直ただの差別発言ですが、それでも女全体、つまり個人ではないため、誰か一人を追い詰める可能性は非常に低いです。

一方、「あなたって〇〇だ」「誰々って〇〇だ」と誰か一人を特定しての発言は、その対象を明確にロックオンして傷つけることができてしまいます。

コメントや発言の前に、今一度主語を見直してみてください。
その主語に当てはまる人が少なければ少ないほど、大きな傷を誰かに与えてしまう可能性があります。


「だって事実だから」は免罪符にならない

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無意識に批判的な言葉を使ってしまう人から、よく聞く言い訳があります。

「だって事実だもん」
「本当のことだし」

この言葉が必要になる時点で、そのことを言ってはいけないのです。

なぜなら、相手に確実に傷を負わせてしまっているからです。
特に事実・真実というのは、揺らがない分、他のどんな言葉よりも強い力を持っています。
どんな複雑な罵詈雑言よりも、鋭く深く人を傷つけてしまうことがあるのです。

自分の言葉の力加減ができないのなら、批判的な意味で「事実」も「真実」も気軽に口にしてはいけません。

そしてそのことに気づけない時点で、自分は「精神病院に送られるいじめっ子」に片足を突っ込んでしまっていると考えた方がいいかもしれません。

相手を傷つけてしまった時には、素直に「ごめんなさい」を口にしましょう。
「だって事実だから」は、なんの言い訳にもなりません。
(むしろ私には堂々とサイコパス宣言をしているようにしか見えないです……)



「叩く人」はたくさん叩く
「何も言わない人」の方が実は多い


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世の中で話題になる「炎上」という現象、実は批判コメントを打っているのは全体の人口のうち、ほんの一握り程度の人だ、という話を聞いたことがあります。

それなのに、どうして「炎上」と呼ばれるのでしょう?
キャンプファイヤーがせいぜいじゃないでしょうか。

理由は、「叩く人(炎上させる人)」は、たくさん叩く(たくさんコメントをする)からです。

両手に松明を持って草原に着火しまくって大炎上を起こしている人が、ほんの数人存在しているからです。

では、大多数の人はどうしているかというと……特になんの反応も返していないのです。

良し悪しも言わず、ただ「へぇ」と眺めているのです。
そういう人が、大多数です。

つまり、両手に松明を持って火をつけて回っている、その人たちが明らかに少数派で、言って仕舞えばおかしいのです。

ところが、このとき批判の的になるのは火をつけて回っている人ではなく、火をつけられた側の人です。
(先のたとえで言うところの、草原の管理者です)

おかしな話です。
現実なら、この数人こそ、放火犯としてとっ捕まえられるべきなのに、管理者側が訴えられるんですから。

これはちょうど、教室のいじめっ子たちは軽い説教で済ませていじめられた側を転校させる、そんな処分と似ています。

注目が集まるのは被害者で、加害者に大したお咎めがありません。

なぜでしょう?
もしかしたら、法律やルールを作る人、その人たちが、加害者側の人間だったから……なんてことは、少々妄想が過ぎるでしょうか?

もしくは、単に特定が難しいから、特定するためには監視が必要になるから、そんな制度的な課題があるのかもしれません。

なんだかなぁ、と思う気持ちが止まりません。
でもとりあえずは、少しでも「叩く人」が減り、「いじめっ子」がケアされる社会に近づくことを、心の底から願っています。

あなたは最近、どんなコメントをしましたか?

エイでした。

画像:https://unsplash.com/photos/Bv_PMxkprVQ
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