台無しになるということ
台無しとは、物事が、すっかり駄目になることをいう。
もともと台無しの「台」は、仏像を安置する台座のことである。 台座が無ければ仏像の威厳が無くなることから、面目を失うことや、形をなさないことを「台無し」と言うようになったという。
たとえば、自分の力を0から50まで引き上げる。これは、並々ならぬ努力の積み重ねである。
また少しずつ重ねて、60、70と引き上げてゆき、できるだけ100に近づきたいと願う。これが、人情である。
であるのに、ある瞬間、50から0を
通り越し、-50に落ちてしまったのである。
これまで経験したことのない悪夢のような場所に立っているわけである。
ここに至り、これまでの努力が、
台無しになったという感覚を覚えた
のである。
そして、人生の理不尽さに、ひとり嘆き悲しみたい気持ちになったので
ある。
でも、嘆いていても、どうしようもないから、また這い上がることを決めるのである。
今度は、ゼロからでない。
マイナス50からのスタートである。
遠い道のりを思い、暗たんたる
気持ちでいると、はたと気づいたのである。
「そもそも自分の人生には、台座がなかった」のである。
だから、まず台座から作りはじめたのである。
「なぜ生きるのか」
「なぜ働くのか」
「人生の目的とはなにか」
「何を持って幸福とするのか」
「命とは何か」
何度も自問自答し、その答えを作りあげ、それを自らの人生の台座としたわけである。
人生の台座とは、人生観であり、
死生観のことであり、幸福観であり、自らの価値観のことである。
せっかくの機会である。
ひとつ腰をすえて、しっかりとした台座を作ろうと決めたわけである
人生では時々、すべてが、台無しに
なった。そう思えるような時がある。
しかし、決してそうではないので
ある。
もともと台座がない人生だった
だけなのである。
であるならば、ゼロに戻る前に、
まず自分らしい台座を作れば
良いのである。
そして、そこに、新しい人生を
積み重ねてゆけば良いのである。
これまでの経験を生かし、
ゼロから、本当に自分らしい人生を
重ねてゆけば良いのである。
自分らしい台座があれば、
もう大丈夫なのである。