優しくなりたい
可能思考とは、「考え方」を
「できるという考え方」にして
いくことである。
「できない自分」を「できる自分」に変えてゆく。
これが、人生の醍醐味であると
信じていたのである。
だから、「できる自分」になるために、「できるという考え方」を身につけようとしてきたのである。
そのことによって、少しずつ
「できる自分」になっていった
わけである。
しかし、ここに至り、弊害が
発生したのである。
我が子が、可能思考について
こられなかったのである。
ついてこられないどころか、
動くこともできなかったのである。
自らが経験した失敗や挫折とは
比較にならない。
そのような危機的な状況なわけで
ある。
しかし、可能思考を身につけて
きたゆえに、弱っている我が子の
気持ちにまったく寄り添えなかった
わけである。
心の奥底には、「甘えてる」
「弱い」という思いが、
存在していたからである。
そうやって、我が子を責め続け、
事態は、悪化していったのである。
なぜならば、我が子もまた、
父親のように、自分を
「甘えてる」「弱い」と、
罵り続けていたからである。
親の思考が、我が子にとって、
呪いとなり、生きるエネルギーを
奪っていたのである。
ほとなくして、自分もまた、
深い絶望の淵に叩き落とされた
のである。
身につけた可能思考が、まったく通用しない。そのような絶望の淵に、
はまったのである。
ここに至り、我が子の気持ちに
寄り添うことが、少しだけ
できるようになったわけである。
つまるところ、これまで、
自分の弱さや甘えを、できるだけ、
見ないように生きてきたのである。
自らの弱さや甘さを否定して、
自らの可能性にのみ目を向け、
生きてきたのである。
だから、我が子が、
鏡となって教えてくれたのである。
自分の弱さを見なさいと
教えていたのである。
であるのに、それに気づかずに、
ひどい言動を浴びせかけて
しまったのである。
正論を並べ立て、我が子を
一刀両断、苦しめてきたのである。
「人間の無限の可能性」
これについて、我が子に伝えたい。
その一心で生きてきたのである。
しかし、その結果、我が子の
気持ちを理解できない。
そのような自分が出来上がった
わけである。
だから、今は、まず自らの弱さや
甘さをありのままに見つめ、
寄り添いたいのである。
「やさしくなりたい」のである。
家族に対して、そして自分に
対してである。