「3.11」がある青少年に与えた人生のテーマ
皆さんこんにちは。
私は現在大阪で学習塾を運営しています。
一聞すると関係ないように聞こえるかもしれないが、
その原点はまさに2011年3月11日「東日本大震災」に遡ることになる。
3.11は私の人生に大きな影響を与えた。
本記事では、当時高校生だった私に東日本大震災が与えた影響を書こうと思う。
1.震災当日
当時私は18歳で大学入試の国公立後期入試を控えている状態であった。
3月11日の事は今でもよく覚えている。
その日、私は後期入試の選抜で面接が課せられるため、担任の先生との模擬面接を行う為に当時通っていた高校にいた。
お昼過ぎだったと思う。
まさに面接の練習中、大きく学校が揺れるのを感じた。
「先生、揺れている気がします。地震です。」と伝えたが、先生は
「揺れを感じない、気のせいではないか」と言った。
この日まで私は一校も大学を合格していなかった。
日々の生活を送ることが億劫になり夜遅くまでゲームをするなど現実逃避気味で寝不足だった。
「地震は気のせいかな、多分後期入試もダメなんだろうな。。。」
と思いながら帰路についた。
家に着いても揺れのせいか、気持ちが悪い。
一眠りしよう。と夕方から夜まで仮眠を取ることにした。
ーーーーーーーー夕飯時ーーーーーーーーー
母に叩き起こされた。
なぜか母は怯えるような、切羽詰まった声で私を起こすのだ。
「何事だ。」現実逃避の睡眠がいかに気持ちいいか分からないのかと思いながら、私は自室を出た。
目の当たりにしたのは水没し、火の海になった福島県の映像だった。
私は大きなショックをうけた。
まさか映画でしか、むしろ非現実よりも悲惨な光景がこれまであっただろうか。
この日の自身で失われたであろう人命の数を想像すると、
言葉が出なかった。
その時、目の前の受験に真剣さを欠いている自分を恥じた。
今この数時間で膨大な数の人命が脅かされていたのにも関わらず、
生きている自分は何をしているのだろう。
そう思った。
その日から、勉強を再開し後期受験を迎えた。
しかし、敢えなく不合格、浪人という選択を取ることになった。
正直に言って浪人はしない方がいい。
浪人はお金、時間など様々なものを費やすにも関わらず、現役生の時よりもいい結果が得られるのはほんの一握りだ。
現役生の時に失敗した人間が1年後にうまくいく可能性が低いのも当然だ。
しかし、私にとって浪人時代の1年が大きな転換点となった事は間違いない。
それは、3月11日を目の当たりにしたからであり、
私の進路選択に大きな影響を与えた。
2.人災を目の当たりにする。
3.11の被害はもちろん自然災害でもあるが、
当時の私は「人災」も同時に起きていると考えた。
福島第一原発事故が人災の発端である。
当時高校生であった立場から福島第一原発事故をこのように見えていた。
(詳しい当時の状況は覚えていないが、おおよそ以下のことを考えていた)
登場人物は以下のとおり。
・東京電力
・政府
・専門家
・国民
当時を思い返していただきたい。
これらの登場人物はそれぞれ責任のありどころを明確にしようとするなど、
批判に批判を重ねるような、そんな状況であったと記憶している。
とにかく登場人物がそれぞれまとまりがなかったように見えた。
(事実と異なるかもしれないが、当時高校生の私からはそのように見えていた。)
「なぜこれ程にも同じ日本国民がまとまりの無い状況になってしまうのだろうか、これは災害であり人災でもある。」そんなことを考えていた。
私が特に問題であると感じたのは、
それぞれ(企業と国民、政府と国民)の関わる人同士を媒介する機能が無いことだった。言い換えると中立的な立場で問題の解決策を提案しようと試みる人がいなかったのである。
未曾有の大災害を発端に日本国が抱える人災が明るみに出たと感じたのであった。
3.浪人中にとある大学に出会う
2011年9月ごろ、私は目の前の勉強に熱中していた。
これまで勉強が好きな訳では無かったのだが、参考書を読んで問題を解くのが楽しくて仕方なかった。周りの友人にも恵まれてとにかく楽しく浪人生活を送っていた。
そしてある大学と出会う事となる。
それがその後私が通う事になる大阪府立大学である。
11月ごろのある日、私が通っていた予備校の最上階で大阪府立大学の入試説明会があると聞き参加することにした。
その説明会の中で「現代システム科学域」という名の学部(学域)を新設するという話があった。
現代システム科学域は経済、社会、環境、化学、生物学など様々な分野を総合的に学び多面的なアプローチで社会問題の解決に挑む力を育むいわゆる「文理融合」学部としてできたものであった。
この時、3.11の時に感じた「中立的な立場で問題の解決策を提案しようと試みる人がいなかった」という問題に対する解決アプローチを見つけたのだった。
「なるほど、そもそも現実社会の問題は今予備校で学んでいるように問題と答えが1:1になっている事なんて殆どないんだ。」
「私は中立的な立場から問題を考えられる力を学生の内に身につけよう。」
そう決めたのだった。
中立的な立場で問題の解決を試みる為には、
様々な分野の人と多少専門的な知識を交えて会話ができる基礎知識、
またそれを的確に伝える説明能力が必要なのではないか。という仮説をたてた。
言い換えれば、ファシリテーション機能を身につけようと考えた。
ファシリテーションとは、意思決定の場面において参加者の話を円滑に回す役割のことであり他者理解が重要である。
私がファシリテーターとして機能するためには、
「多分野にわたる基礎知識の習得と説明能力の向上」が必要であると考え、
この2つを目標として府立大を受験する事を決めた。
この決意は私が東日本大震災と浪人を同時に経験していなければ、実現し得なかっただろう。
4.説明能力の向上
無事大学に合格した私には大学生活における2大テーマ「多分野にわたる基礎知識の習得及び説明能力の向上」があった。
知識の習得は大学の授業や自学でなんとかなる、しかし説明能力を向上させるためには何をすればいいだろうか。
まず説明する対象者は「知識のない人」である方が好ましいと考えた。
私はあくまで、専門知識をわかりやすく何も知らない人にも伝えられるようになることを目標としていたからである。
意思決定の場面では必ずしも全員の知識が同水準ではない。
そのため、できるだけ参加者が同じ目線で議論できるための説明能力を身につけたかった。
そこで思いついたのが「学習塾の講師」であった。
これなら説明能力が身に付くだろう、対象も初学者であるため最も適していると考えた。
講師として指導する際意識していたのは
・客観性の高い言葉を用いる(百人に説明すれば百人が同じ解釈をできるような言葉)
・相手の理解度を常に意識する(階段を1段ずつ登らせてあげるイメージ)
・アイコンタクト
である。
学部、大学院時代、6年間講師として説明能力を磨いた。
その甲斐あってか生徒は結果を出しつつけてくれた。
その上、大学でのプレゼン大会や就職活動はスムーズにことを運ぶ事ができた。
5.3.11が私に与えた「人生」のテーマ
3.11のできことが無ければ今の私はなかった。
今思い出しても、あの日みた映像の衝撃を鮮明に思い出す。
思春期真っ盛りの10年前の私に3.11の大震災は私の人生にテーマを与えたのかもしれない。
現在は直接的に震災や環境問題に関わるといった仕事には携わっていない。
しかし、当時私が感じた「中立的な立場で問題の解決策を提案しようと試みる人がいなかった」という我々が抱えている課題に挑戦しているのかもしれない。
私が塾を開業した理由の一つに、説明能力の高く、リーダーシップを持って将来的に社会の中核となる人材の育成という側面があるのかもしれない。
正直に話すとそのような自覚はなかったのだが、私の原点に戻れば戻るほどそんな気がするのだ。
3.11から10年たった今日
私はあの日の青少年の影を見たのだ。