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錬金術と浮世絵と藍染(2)
プルシアンブルーの発明から日本で一般的に流通するまでに、約120年かかりました。つまり、日本にはこうした合成顔料の発想が存在していなかったということになるのではないかというところから、考察を深めてまいります。今回はかなり長くなりますが、よろしくお付き合いくださいませ。
浮世絵の彩色と藍摺絵
ドイツの錬金術師ディッペルと顔料製造業者ディースバッハが合成青色顔料プルシアンブルーを偶然発明(発見?)したのが1704年、販売開始が1710年、製法が簡略化されたことにより製造と販売量が拡大されたのが1749年でした。
では、この顔料が日本に伝来したのはいつかというと、記録に残るところでは1762年が有力となっています。この年、平賀源内が師匠の田村元とともに東京の湯島で開催した5回目の物産会「東都薬品会」に、「ベレインブラーウ」という品目で出品されました。
プルシアンブルーが日本で画材として使用され、現存している今の所の最古のものは、伊藤若冲『動植綵絵』(1757-1766)とされています。まだ鎖国していた日本にとって、舶来物の画材は高価だったため、プルシアンブルーを画材として使用できる画家は一握りに限られていました。
この状況が一変するのは1826年ごろからのことです。清の商人がイギリスから大量に買い付けたプルシアンブルーの余剰分を、日本に向けて安く転売し始めたことから急速に広まりました。そして更に、1841年に始まった天保の改革で掲げられた「奢侈禁止令」が浮世絵業界に影響を及ぼします。浮世絵のジャンルの中でも、「錦絵」と呼ばれる様々な色板を使用した多色摺の作品に制限がかかったのです。
この流れで登場したのが「藍摺絵(あいずりえ)」。藍色の濃淡で彩色された浮世絵です。
藍摺絵の話に移る前に、それ以前に浮世絵で使用されてきた顔料について、浮世絵のジャンルの推移とともに整理したいと思います。
墨摺絵…墨一色。17世紀後半まで
丹絵…丹(辰砂・赤色)で彩色。17世紀後半〜18世紀中頃
紅絵…植物の紅で手彩色。18世紀前半
漆絵…紅絵の墨の部分を黒漆や膠入りの墨で手彩色。18世紀前半〜18世紀中頃
紅摺絵…墨・紅・草・藍などの板木で摺る5色までの色摺。1744〜1765
錦絵…墨板+様々な色板の多色摺。1765年以降
プルシアンブルーが伝来する前に浮世絵で青色の彩色に使用されていたのは、主に露草と藍(タデアイ)でした。露草は入手しやすいのですが褪色が早く、藍も入手しやすいのですが黒みが強く表現の幅に限界がありました。
そこへやってきた鮮やかで褪色しないプルシアンブルー(明治期からベロ藍と呼ばれています)。藍摺絵を最初に作ったのは葛飾北斎と交流のあった浮世絵師 渓斎英泉で、このプルシアンブルーの鮮やかな色合いの濃淡を繊細に使い分け、浮世絵界に新たな世界観を提示しました。
そして北斎が『富嶽三十六景』にこの顔料を多用したことや、歌川広重が多くの作品に効果的に用いたことは有名です。特に面白いと思うのは、北斎の『富嶽三十六景』で藍とプルシアンブルーが使い分けられている点です。北斎は、輪郭線のみ藍で摺り、そのほかの青い部分にプルシアンブルーを使いました。プルシアンブルーの彩色を引き立てるための輪郭は墨でもなくプルシアンブルーの濃色でもなく、黒みの強い藍を使った…この繊細な色彩感覚に痺れます。
こうして、浮世絵では早い段階から天然藍から合成青色顔料への移行がスムーズに進んでいました。この変化が業界内の大きな反発なく進んだのは、その使用量が画材に限定されていたためと考えられます。つまり、既に完成されていた阿波藍ギルドの商圏に何らの影響も及ぼさなかったということです。
プルシアンブルーは藍甕に投入しても染められない顔料だったことで大きな反発なく受け入れられ、安価に購入できるようになったタイミングで当時の浮世絵師がこぞって用い、「表現のバリエーションを広げる彩色用素材の一つ」として浮世絵界に歓迎されていた様子が伺えます。
それはそうと、こうした流れを眺めていて不思議に思うことがあります。そもそも、日本には錬金術的な発想で化合物を作って利用するという概念が無かったのでしょうか。生薬を様々に処方したり、微生物の発酵の力を利用したり、金・銀・銅や鉄の精錬など類似しそうな技術は古くから多用されてきたのに、プルシアンブルーの伝来はあまりに鮮烈な印象で、それまでの日本のものづくりとは明らかに異質な成り立ちを想起させます。
日本の錬金術的技術と奈良の大仏
気になって記録を遡ると、日本でも錬金術的な技術が大がかりに採用されていたことがわかりました。奈良の大仏の仕上げのメッキ作業に、錬金術ではお馴染みの素材と技法が用いられていたのです。
大仏の建造時、最後のメッキ作業に採用された技術はアマルガム法と呼ばれるものでした。それは、仏教伝来とともに中国から伝えられた技法で、水銀を用います(中国では錬金術的発想が古くからあり、「不老不死」の霊薬を生成する技術の研究が皇帝側近の間で常に進められていました)。中国ではこのアマルガム法を紀元前500年頃から応用していたようです。世界初の火薬のレシピの発見も、中国の錬金術の副産物です。
水銀は常温で液体の状態を保つただ一つの金属。地殻を構成する成分に含まれ、土、空気、水の全てに微量が含まれます。融点は約−38℃、沸点は約356℃(金属としては低いです)。
アマルガム(合金)を作りやすい性質があり、例えば金を水銀に溶かし込むと金アマルガムができます。これを大仏の表面に塗布し、その上から火を焚いて水銀のみを蒸発させると、金だけが残ってメッキが完成します。大仏そのものがとても大きいので、このメッキ作業だけで5年かかったというのですから壮大な工事です。
水銀とアマルガム法は錬金術では基本の素材とスキルで、それが奈良の大仏の仕上げ作業に採用されているというのはとても面白いと思います。
この水銀をどのように入手するかというと、辰砂(しんしゃ)もしくは丹(たん)と呼ばれた深紅の鉱石から生成しました。辰砂は水銀と硫黄の化合物。硫黄といえば、火山や温泉。日本では様々な場所で採掘可能だったと思われます。上記の浮世絵のジャンルに見られる「丹絵」の彩色に用いられた顔料は、この鉱石をすりつぶしたものです。
辰砂は消炎・鎮静のための薬としても用いられていました。また、塗料として神社の扉や仏像に利用され、魔除けのための結界の役目が期待されていました。実際、防腐効果を発揮し保存性を高めることに一役買っていたようです。また中国では、辰砂こそが「賢者の石」だと主張する人もいたようです。
つまり、錬金術的素材も技術も、早い段階から中国経由で日本に流入していたと思っていいようです。でも、西洋のような展開が進まなかった。なぜなのか…これについては後ほど、個人的見解を述べたいと思います。
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