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繊維産業の成り立ちと藍染(1)

 以前、江戸時代に藍染文化が繁栄した理由を深めに掘る記事を書きました。そこで木綿がこの時代に一般化したことが重要ポイントであったことに触れました。

 今回は、国内の木綿以前の繊維の種類と用途、江戸時代に木綿が普及した根拠についての補足を踏まえて、藍染が国内に広く行き渡った状況を追体験してみたいと考えています。


貨幣経済浸透以前の繊維の価値

 現代に生きているとイメージしづらいことですが、一般民衆が自らお金を稼ぎ、そこから代金を支払って自由に買い物ができる時代というのは、長い人類史上においてつい最近にかなえられた現象です。衣食住に必要なものを、対価を支払ってなんでも購入して揃えられるようになる前は、どうしていたのかということをイメージするところから今回の話が始まります。

 少し極端なようですが、時代を荘園制の敷かれたところまでうんと遡ってみようと思います。この時代に残された記録から、当時「価値あるもの」と認識されていたものをうかがい知ることができるからです。
 なお、今回の記事で主に参考にしている資料はこちらです。

 大化の改新(645年)から壬申の乱(672年)を経て中央集権化が進み、701年に日本初の法律である大宝律令が制定されました。これにより天皇を中心とした古代統一国家となった日本ですが、8世紀の間に貴族・寺社の私有地である荘園を基盤とした土地・人民の支配傾向が顕著となり、律令国家は10世紀中に解体。ここから16世紀の豊臣秀吉による太閤検地によって廃止になるまで荘園制が続きます。平安時代(794年〜12世紀末)は、この荘園制の只中で展開され、その後武士が台頭した鎌倉時代にも引き続き荘園制が機能していました。

 荘園制を砕いていうと、荘園と呼ばれる領土を治める領主が、部下たちに役職を任せて領土内の人民から年貢(租税)を徴収し、治安を維持しつつ保持した支配体制です。この、人民から徴収した年貢の記録を見ると、現代のような「金額」ではなく、当時の貴族や役人が自らの暮らしや神事などの年中行事に必要とした様々な「産品」が並んでおり、当時の物の価値についてイメージすることができます。

 1241年(仁治2年)5月、東寺領丹波国大山荘の地頭代僧正仏(役人)が請け負った年貢注文には、米・麦・苧(からむし)・布・漆・油などが記載されています。
 苧(からむし)は繊維を取るためのイラクサ科の植物。そして、布というのはほとんどの場合、この苧の繊維で織り上げられた布のことを指していました。養蚕や絹織物の技術を擁した地域には、糸(蚕から繊維を引いて糸により上げたもの)、絹(絹糸で織った布)、綿(繭を切り開いてシート上に引き伸ばしたもので、木綿とは異なります)の記述も見られます。また、大麻(おおあさ)の繊維やそれでおられた麻布も、年貢に含まれる地域がありました。

 特に絹の生地は金(gold)と変わらないほどの価値を持っていた時代もあるようです。絹に関してはそれぞれの作業が分業制となっており、桑の葉を収穫し養蚕する人、蚕から糸を引く人もしくは綿を作る人、糸を染める人、糸を織りあげる人が専門職として役人に雇われる形をとっていました。それは、自家製の技よりさらに洗練された専門技術と専用の施設が必要だったため、領主や役人が主導して技術を教える仕組みと安定して作業を続けられる作業場とを整え、年貢分の絹の産出をかなえていたことを示します。ですので、絹の民間による自家使用はほぼ皆無だったと考えられています。例外的に、蚕を割いて作った「綿(わた)」の上質でないもの(年貢用の品質に達さないもの)は、衣類の中綿として利用されていた可能性が指摘されています。

 苧と麻は、苧麻(ちょま)と記載され厳密に分けて認識しづらい資料が多いようです。苧は、山などに自生しているものと畑で栽培されたものが併用されていた形跡が長く続きます。一方の麻は毎年種蒔きが行われ、また種も産品としてやり取りされていたことから、主に畑で栽培される農産品と考えられます。こういった性質上、民衆による自家使用は麻よりも苧の方がより一般的であったことが推測されます。

 伊勢神宮に平安時代以前から伝わる古い神事の神御衣祭(かんみそさい)では、今でも荒妙(あらたえ・麻の反物)と和妙(にぎたえ・絹の反物)が奉納されます。これは、日本で古くから利用されてきた繊維の内の重要とみなされていたものが麻と絹であったことを想起させるものですが、貴族の暮らしにおいては苧も重用されていたことが年貢のラインナップによってうかがえます。
 木綿が国内栽培が普及するのは江戸時代に入る少し前ごろからで、荘園制の時代に年貢として求められたことは無いようです。後に触れますが、戦国時代に入るまでの木綿事情は、ほとんど中国や朝鮮からの輸入品に頼っていました。
 民衆にとって、木綿が一般化するまでの衣料事情は大変厳しく、布の価値は今では想像もつかないほど高いものでした。それは、繊維を取り出し紡いで布に織り上げるまでの作業に膨大な時間を必要とし、年貢に納めるためのものを作るのに精一杯の暮らしの中で、自らの衣料を整える暇もなかったためでした。

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