食卓、整理ダンスとムービーカメラ


 この数年、妻の介護と我が家の家事をしている間に、映画の制作部の仕事のことを考えてしまった。なぜかというと、制作部の仕事の中身が介護や家庭の家事一般とどこか相似していないかと思ったからです。また、介護の業界の現場で働く人たちの低賃金と映画現場における制作部の労働に対する賃金評価が多少似てるからかもしれません。また、昨今、ブラック(という使い方は大嫌いですが)企業の内容やエッセンシャルワーカーの賃金体制、フリーランサーな俳優たち、特にエキストラ俳優の労働としての扱われ方など、労働に対する考え方やそのシステムや社会の意識を改善・再構築していかないといけない時期に来ているように思うのです。それらを考える参考になればと思います。

 制作部が技術部、つまり専門職の、例えば撮影、照明、録音や美術よりも早く撮影現場に入り、彼らが仕事しやすいように準備をすることから彼らの仕事の1日が始まりますが、撮影中には、2度か3度の食事、あるいは深夜食から現場の管理や撮影現場に出入るする俳優やエキストラなどの面倒をみて、撮影が予定通り進められ、しかも移動も含めた内容をラインプロデューサーやプロダクションマネジャーの下で管理することが彼らの主な仕事になります。これって家事一般や介護の面倒をみているのと全く変わりありません。しかも、ご存知のように、両方の仕事や職種は過酷な仕事内容に似合った程には評価されていず、たぶん他の技術スタッフの報酬、給与や待遇と比べても低いはずです。そういう点では、現在の介護業界も全く同じようなものでしょう。

 ここに、日本社会の仕事に対する序列の概念がずっと存在し、つまり家庭を守る、家族の一員を助ける家事一般の重要性や、人や家庭の面倒をみるということが、未だに仕事の分野とされていない証拠ですし、本当に評価されるべき職種に敬意とそれに値する賃金が払われていないようです。

 今回は、Amazonのキンドルで発売中の「自主映画人ガイド」でお話しした、華やかなお祭りの場でもある映画祭のことや、ビジネスの一環としての配給についての内容から少し離れて、我々が置かれている映画作りの環境のことを自分たちの日常生活の諸々に当てはめて考えてみることにしましょう。また、それは私が「自主映画人」という言葉を作っている背景も説明できると思っています。

制作部の仕事とは
 製作全般の長であるプロデューサーの下に制作準備から撮影時の現場を進行管理するのが制作部の仕事ですが、その1日や全般を簡単に追ってみますと、大体次のような内容や項目に分けられます。

(1)飯の仕度と買い出し(ロケ弁の手配や飲料水とスナックの常備)

 一日の始まりが朝食です。実際に食べる時刻よりいち早く準備を始めるのが食事の鉄則ですが、映画スタッフの場合に当てはめると、技術部、演出部、美術関係のスタッフに加えて早での俳優ら、もちろん監督を含めて朝食が必要です。家庭では、会社に出勤する人、学校に行く人らに食事を提供するのが仕事です。映画の撮影現場ではなかなか炊き立ての食事をその場で提供するのが難しく、やはりロケ弁という体裁が主流です。それに即席の味噌汁を提供するだけでも随分違うはずです。これらの手配や提供が制作部の仕事ですが、家庭では主婦や主夫がそれを用意して皆んなを外に送り出しているのです。この関係では、単純に作る人と食べる人に分けられていますが、誰かがそんな役割を担って行かなければ生活環境、映画撮影で言えば現場の環境を維持、継続できないと考えてください。ですから、食べる人は、自分の食べ残しや使った食器、弁当の殻を処分する程度のことは自分でやってみてください。作る人も食べる時間の確保が必要ですし、彼らの食事時間も配慮してみましょう。これが本来の生活環境だと思いたいです。家長制の家庭では支度も後片付けも主婦が請け負い、主人を筆頭に残りの家族らはそのまま次の予定に出ていくわけですが、それを映画の現場で踏襲しないように願います。

(2)小物、衣装の整頓(美術・衣装部の仕事の協力)

 普段の生活で自分が使った衣服やアクセサリーをその日のうちに元に戻せない人がいますが、映画の現場では俳優さんが使った衣装は撮影に映り込む美術の一部なので撮影中はやはり管理が必要です。自分の生活でも使ったその日の衣服を脱ぎぱなしで元の位置に戻さないことが重なると何が困るのかを考えてみれば、この役目の大切さを想像できると思います。低予算で衣装部が存在しない製作チームでは俳優さんの持ち込みなどが多いでしょうが、それでもそんな状況に甘えず、彼らから借りている衣装ということで最後には町場のクリーニングに持って行って返却できるくらいのことは必要でしょう。

(3)清掃と動かしたものを元に戻すこと(ロケ先の片付けや原状回復)

 映画の撮影で人が住んでいる、あるいは使っている場所や建物を借りることがあります。特に、サウンドステージでセットを組むことが不可能な低予算の映画制作では在りものを撮影に使用するのが常です。そこでも、社会にある通常のルールが必要です。それは動かしたものは元に戻しておくというセオリーです。自分の家や部屋に他人が入り込み、勝手に家具やアクセサリーを移動したならどうしますか?やはり、元に戻して出て行って欲しいでしょう。よく聞くことですが、撮影で使用した場所をそのままにして、あるいは壊した箇所も復元しないまま帰っていく撮影チームがいるということですが、これは業界のマナーというか、普段の人間の生活慣習からもダメが出されるでしょう。

 若い頃、テレビのドキュメンタリー番組の制作部の仕事を担当していた頃、千葉の某高校学校のベランダで喫煙をしている学生を盗撮するためにその様子が撮影できるアパートの一室を借りた時のことですが、撮影部二人がその狭いアパートの一室に張り付き撮影を敢行しました。撮影部は少しでも居心地を良くするため狭い部屋を占めているベッドを取っ払ってカメラを据えることを決めたようですが、ベッドの移動やらベッドの下にあった雑誌の山を排除しカメラを設置し必要な撮影に成功したようです。というのも私はその現場を立ち会えませんでしたから、最後に撮影の二人が全てを元に戻したかを確認出来ませんでしたが、アパートの持ち主から何もクレームがなかったことは幸いでした。

 さて、何故ロケセットなどで制作部が建物や室内が元あったように戻したり、修復することがなぜそんなに重要なのかは、その映画撮影やプロダクション会社の信用や評価に繋がるだけでなく、映画撮影の業界のマナーを正常化しそういった撮影や一般のロケセットの借用が今後も可能にしていく礎になるからです。使ったものはちゃっと元に戻しておくってことは一般の家庭でも行われていることです。

(4)他人を世話する、そして介助、移動も(ロケ先の移動や俳優たちの送り迎えや面倒など)

 制作部は基本的に創作活動からやや離れた仕事が多いのは、監督を筆頭に演出部や技術部らが仕事しやすいような環境を作るのが仕事だからです。それは家庭環境を整える、あるいは家族皆んなが生活しやすくするのと似ていなくないでしょうか?他の部署の仕事やその内容を彼ら自身がやり易く、そして気持ちよくできるのを支えるのが役目だとすると、それはやはり家事や介助の仕事に似ていると思うのです。

 指示系統では制作部は、プロデューサーの下で動き、撮影日程や制作予算の管理と共に効率的な撮影を進行する役目がありますが、制作部も制作アシスタントで一括しているチームもあるし、ライン・プロデューサー、制作マネジャー、制作進行からロケーションマネジャーなどと多岐に分けているチームもあります。それらは制作予算やチーム全体の規模にもよると思います。

 但し、 守備範囲の違いはないので低予算になるほど制作部の仕事が兼任になることが多いと言えるかと思います。この課題は大きいです。映画現場の適正化に伴い改善される課題かもしれません。が、低予算の現場を公的に無視されるのか、あるいは何らかの支援が得られるのかは注視しましょう。

 ところで、 自分の日常を俯瞰したことがありますか? 最近読んだ本で、財政的に見た、人のゴールのことを示唆に富んだ視点で書いた「ラテ・エフェクター 1日1杯のコーヒーで人生を変えるお金の魔法」でも言っていたが、どんな人生もそれぞれの人生のゴールを夢見る、見据えるのが必要と考えている。例えば、映画業界に従事していてどのように人生をその世界で終えたいか考えることもあって良いと強く思うのです。その考えが10人、100人寄り添うことになってその世界や業界が変わっていくこともありうるのです。

私の場合は

 先日介護保険のセミナー(アメリカの日系保険会社主催)を聞いていた時、初めて「Homemaker/ホームメーカー」という言葉を知りました。ホームメーカーは家事一般を担う人のことですが、日本の多くの家庭ではその役目が主婦に当たるようです(もちろん主夫も該当します)。ちなみに、「Home Health Care/ホームヘルスケア」はホームメーキングと異なり、人と直接接触する仕事で、例えば、介護の必要な人が寝床から食卓、あるいは便所や浴室などに移動する時の介添えがあります。また、リハビリなど運動療法の介助もその仕事に入るようです。

 妻が以上のような介護が必要になって以来、私は家事と介護を担っていますが、週に何回か外来のホームヘルスケア・ワーカーと一緒に仕事をすることになって、いろいろ学び知ったことがあります。

 家長制度の残る日本の家庭では、家事は女性、強いて言えば主婦の仕事となるケースが多々ありますが、共働きの夫婦の在り方を考えると女性だけにそれらの負担を強いるのは現実的ではありません。もちろん、育児が加わる家庭も多いでしょう。家事はそもそも生活環境の管理ですから、状況によっては家庭内で各自が責任を持って取り掛からないといけないものです。例えば、ごみを家の中にずっと置いていられますか? 不衛生ですよね。散らかした衣類や書類をどうしますか? 片付けが後手後手になると、もっと厄介になることを想像してみてください。

 具体的に家事の内容を、朝から夜の就寝時間まで順に列記してみると分かりやすいかもしれません。

 まずは起床。独りで寝起きしているなら、外に出る時間に合わせて朝食を用意し、(シャワーを浴びて)着替えて外出ということになりますが、朝食を用意するのに数分もかからない、あるいはかけたくない人もいるでしょうから、その場合は食器を片付けることが主な家事だと考えられます。これが夫婦世帯や子供のいる家庭なら当然変わってくるわけで、食器や朝食の準備に加え、外に出て行った家族が残した衣服や食器の片付けが必要になるでしょう。奇麗好きな人なら使った部屋を掃除して、衣服を洗濯するかもしれません。家族が帰宅するまでは、自分用に昼飯の支度と後片付け、終われば買い物に加えて配偶者から頼まれた事があったりして、全くの暇ということにはならないでしょう。そうして、家族が帰宅する頃からは矢継ぎ早に忙しくなるはずです。晩食の準備から後片付け、就寝まで数時間。家事を手伝うということは、これらを手伝うことになります。就寝も常備のベッドではなく布団ということなら、家族の分も布団を敷かなければいけないこともあるでしょう。

 最近の日本映画で家族の食事場面を見ていると、女性が食卓と台所を行き来している間、家族の誰も手伝おうとしない、もちろん後片付けもしない映画描写がいまだにあります。家事は誰が担うものなのかを既に決められているように見えて仕方がありません。家事こそ人間の生活の一部であり、環境を維持する活動なのに、その家事を女性だけに負担させ、その大切さを無視しているような気がします。

 家事は日常生活で自分に必要なことを示唆しているとも思うことがあります。一度家事を投げ出してみるとそれが分かります。環境がどんどん不衛生になり、全てが停滞して行くのは明白ですが、本来のホームメーカーが全くそれに気がつかない、あるいは諦めているような場合、家がやがてごみ屋敷に化けていきます。

 食材の買い物から食事の支度、献立、そして後片付け、食器洗いなど以外にも日常の生活環境を整える作業はたくさんあり、食事以外の家事こそきちんと認識していかないといけません。食事の世話だけならコンビニで買い物し、それを食卓に並べ、食べ終えたらごみとして処理するだけで事足りますが、健康を考えた食事のバランスという課題は残ります。このコンビニに頼る食生活以外にも、もちろん家事は存在するのです。前述のように、衣服、寝具などの洗濯と整頓や部屋、浴室、便所などの掃除に加え、支出経費を含む家計の管理も含まれるでしょう。

ホームヘルスケアとは

 独り身になって、しかも家で介護が必要な状態になると、普段の家事を請け負ってくれる人を外部から頼んだりすることになります。それらも総じてホームヘルスケアの守備範囲となります。もちろん、あなたが障害者と認定される前提でしかこういったサービスが得られないのは承知のことと思いますが。

 ここで言いたいのは、一度自分の体の不自由を経験すると、身障者の生活の一部が分かるということなのですが、一般の家事と共に、この介護が実は当事者が日常生活で特別な意識をせず行っている動作・行動なのです。家事と同様に、介護の世界では最初の状態や位置から出発し、最後には同じ状態・位置に戻って来るまでの過程が毎日繰り返されます。例えば、棚にある食器類が移動し、食卓、人の手、そして食器洗いなどを経て元の棚に戻って来るのに似ています。介護では、介護人の手によって寝床から車椅子、そしてトイレ、あるいは、食卓や別の椅子、さもなければ元の寝床に戻ります。これらの移動を毎日、毎回介護が担うのです。

 プロの介護人は、先ず世話をする相手がどういう状態かを知ります。例えば、トイレまで自分で歩ける、あるいは車椅子からトイレの便器に移動できるのかどうかなど、日常生活上の行動でどの程度の介護が必要かを把握します。

 この介護人、ホームヘルスケアに携わる人には特殊な技術があり、それは医療介護の世界で認定されています。それは人を扱うという繊細な所作、つまり人の体のことが分かる知識と技術に裏付けされているということです。彼らは医療に付帯したマッサージや理学療法の分野にも応えられます。ここが家事を担うホームメーカーと違うところです。プロのホームメーカー、家事代行は人、患者、介護対象者の身体に触れず、その人が必要なこと、その人ができないこと、あるいは届かない物を手に入れるなどに応えるだけなのです。ただし、米国ではホームヘルスケアの介護人が当然のように家事の一部を担うことは多々あります。

 ホームヘルスケアにも日米の違いがあるでしょうが、介護や家事を必要とする人の生活環境を整え、日常生活を助けるのがこの仕事の根本思想だと思います。配偶者が介護の必要な状態になった時に、この家事と介護の両方の負担を担うことになる場合が多くあります。これが家族による家庭介護です。

介護と家事の両立

 私自身、家庭介護の世界に入ったのは、ほんの数年前でした。それまで杖を使って歩いていた妻が小型の電動スクーターで家の中を移動するようになり、旅行にそれを持って行く必要性も出てきてからです。伴侶が自分の日常生活上の行動を独力でできなくなりつつある時に、介護の必要性が出てきたわけです。

 気がつくと、電動スクーターの行き先を注視したり、レストランなどの施設に行く際には、先に障害者用のトイレがあるかどうか、そこまで段差があるかどうかも確かめたりするようになりました。

 それから随分経って、私がついに短編映画を制作した頃は、妻は外来介護の長時間の必要性も出てきたので、撮影期間は24時間体制の介護の予定を立てました。というのは、私が完全に介護できないからです。それでも、そういう準備が可能になって漸く私自身がその映画の撮影に入れたのは良かったです。そういう環境を作り、家事と介護の両輪を回すのが積極的な生活だと思います。日本での労働環境、特に映画撮影の過酷さを耳にすると、私の経験したことが日本でも可能かどうか、日本でそのような環境を作り撮影ができるのかどうかも気になり、できれば同じような準備、設定が容易にできればと期待します。

 映画撮影の現場は、特に制作アシスタントの視点から見ると、前述した家事の内容に実に似ています。つまり、家族のため、映画の撮影クルーや出演者のために、食事の準備、送り出し、必要な手配事から撮影で使った物や場所を元の位置に戻す、掃除をする、また仮に不備があったりしたら修繕するくらいのことを担っているからです。しかし、家事そのものがいまだに一定の労働としてのきちんとした評価を得られていないように、映画制作アシスタントも他の担当、つまり監督、演出部や技術パートに比べて、極めて低い評価の下で労働しているように思うのです。

 家事に携わる人たちの労働評価が低かったり、映画の制作部の仕事が過酷な割には正当な賃金を得られていなかったりするのは、全て日常生活上にある仕事、つまり特殊な技能や養成を経て得た仕事ではないという、家事に対する伝統的な捉え方や意識が支配しているからではないかと思っています。

フィルムメーキングもホームメーキングから始まる

 私自身は家事と妻の介護を担っていますが、食事や部屋の掃除、寝具の取り替えなどを外来のヘルパーさんや食事の配達などで日々助けてもらっています。それでも私の仕事がずっと楽になるわけではありませんが、私が地元で短編映画の制作、撮影に入る際は、撮影日のみ時間外まで外来の介護体制を整え、食事や他の家事も支障のないようにできました。また、撮影現場では、制作アシスタントらによる食事の面倒や飲料水、スナック類の常備を心掛けました。我が撮影チームが少人数態勢だったので現場のプロデューサーが撮影、照明、美術の各部でアシストしてくれ、しかも技術部と制作アシスタントとのすみ分けをうまく作ってくれたのも助けになりました。ややもすれば、制作アシスタントの労働は朝から晩まで切りがなく、技術部らもひっきりなしに彼らに応援を期待したりして、それに応えるべく、あるいは同調圧力から彼らの過剰な労働が強いられたりします。しかし、超低予算の撮影編成では車の運転も担う制作アシスタントや助監督らに過重な負担をさせずに進めるのが良い労働環境だと思うのです。家庭で言えば、食事の支度や後片付けくらいは各自が責任を負うことで、主婦や主夫、あるいはお互いの負担が随分減るわけです。

 私が近い将来日本で映画の撮影をする際には、その労働環境にこだわり、無理をしない、させないような制作体制を作れればと考えていますし、また、撮影期間には妻の介護体制を整えられるようにしたく思っています。それを実際に遂行していってこそいろいろな課題に立ち向かい、さらに既成事実を積み重ねていくことになるかと思っています。やはり、映画生活も日常の生活環境から変えていきましょう。映画作りに関わる人がそれぞれどんな生活環境を持っていようと、皆んなが溶け込めるような労働環境作りを目指して欲しいです。

最後に、自主映画人とは

 映画を作りそれらを配給販売をしている映画業界は、既に映画資本を有し運営している企業体が制作する映画作品と、こんな映画を作りたいと考えた映画人が自ら資金調達、あるいは自腹を切って作った自主製作映画作品に分かれています。後者は映画業界の端くれか。それらの作品そのものの芸術価値や商品価値がどちらがどうかというのは別にして、労働条件の視点で見ると随分と差がありそうです。基本的に、前者の監督はたぶんその仕事だけで生活ができているかもしれませんが、後者の監督たちはその映画作品の演出料だけで生活できていないはずです。それは当然です。また、それは監督の技能や才能とは別な問題なのです。つまり、全体的に劇映画の演出だけで自分や家族の生活ができている人たちはごく一部で大半の映画人はそうでないことを想像してみてください。

 そこで、大抵の映画人、特に映画監督やその他の専門職の映画人や俳優達も実はフリーランサーなんです。もちろん、中には自ら法人、組織化して自営業として活動している人も多くみられます。つまり、大手スタジオが映画人を囲っていた時代から離れて現在は作品ごとの雇用契約に移行しているので労働環境では映画人の位置はあくまでもフリーランサーな訳です。

 そういう意味では、故・大林宣彦氏が後年自らを映画監督とは名乗らず映画作家と発していたのが理解できます。

 自主映画人というのは、自主映画を撮っている映画作家、プロデューサーやそれに参加している映画スタッフらを言うだけではなく、自分自身で自分と映画の関係を守れて、しかも映画作りを推進していける人たちに掲げたいのです。大昔、私が自主制作映画に関わり始めた時に、「闇のカーニバル」の監督山本政志が80年代当時の自主映画運動の一つ「現状に満足できない学生の会」について言っていた言葉を思い出します。人や自分の生活を変えない限り口先だけでは映画も変わらないって。そうなんです。実は自分の生活とそこから発する芸術表現や映画表現の元ネタはずっとそこに根幹があるのです。

 いつか、そういうメンバーを有した自主映画人の団体が作れ、アメリカのIFPやサンダンス・インステチュートの功績が大手スタジオと対峙し、映画マーケットに影響できたように、日本の映画業界の主流と対峙できたらと夢見ています。


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