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先に知っておきたかったインドの輪郭 2/3

(今回の記事は、こちらの記事の続きですが、単一の記事としても、お楽しみいただけます)

 【2】 「インド人」とは誰のことを指すか その、身体的・性格的特徴


「インド人」と「インド民」

インド人という存在をひとくくりにできない。しかし、「インド」で仕事をするうえで、やはり「インド人は〇〇だ!」という会話や分析をしたくなる。インド人もそれぞれと言ってしまえばそれまでだが、極東の文明から来た我々日本人の視点から見て、明らかに異質な人々がこの地で暮らしているのは間違いない。

彼らの特徴を「インド人」というあまりに大きな主語で語ると批判を招くことがある。例えば、「インド人もそんな人ばかりではない」、というような具合だ。
〇〇人について語る時、あくまでその民族や部族の一般的特徴や文化と言えるものを語っているわけであって、全ての個人に完全に共通することを述べることを分析の目的としていないものの、これらの批判には一理ある。なぜならば、前章で述べたように「インド」という言葉示す範囲は曖昧であるし、インド国外で長く暮らしている「インド系」の人間は、姿かたちはインド人のように見えても異なる生活文化を持っているかもしれない。インド人という言葉そのものが焦点が定まりにくい言葉なのだ。
そこで、私がインドに住む人々について語る時には、一般的に使われるインド人という言葉より定義を狭める形で、
「「インド」にルーツを持ち、その文化・生活コンテキストの中で生まれ育ち、そこから出ることなく、その範疇で現在も暮らしている人々」を、「インド民」として括り、議論を進めていくようにしている。

ここから先は、このインド民という言葉を使い、多くの日本人が明確な理解になかなか辿り着きにくく、インド民自身も解説してくれない、彼らの身体的 ②性格的な特徴に関する分析・説明を展開していく。
(宗教的特徴は紙面の関係上次回投稿に移します。)




①容姿や身体的特徴とそれが意味するもの

我々日本人の大半は何となくインド民の容姿や身体的特徴のイメージを持っている。テレビ・映画・インターネットなど様々なメディアを通して彼らを見るだけでなく、旅行や仕事で日本に来ているインド民らしき人にも会う。そういった関わり合いを通じて、我々の中にインド民の姿形のイメージはなんとなくできあがっている。
しかし、そのイメージは人ぞれぞれ異なっていて、「インド民はこういう姿・顔つき・肌の色をしている」という明確な説明をできる人は少ない。それもそのはずで、実際に現地で彼らと日常的に接していると、彼らは統一感のある容姿を持った単一の民族集団で構成されているわけではなく、世間的に分かりやすい言葉で言えば、多人種・多民族である。

元々のインド民の成り立ちからして、北方の民族(アーリア系)が「インド」に侵入し、古い時代からいた言語体系も遺伝的ルーツも大きく異なる人々(ドラヴィダ系)と混血していったため、様々なバリュエーションのインド民がいて何ら不思議ではない。しかも北方からの侵略は「インド」の歴史の中で幾度となく行われ、モンゴル系の遊牧民すら北インドに到達している。
しかし、大陸の他地域と比較するとインドの不自然な点が見えてくる。例えばChinaは、歴史を通して何百万人という規模で西や東の異民族が訪れてきたが、中原(Chinaの中央部)に居付いた中東やヨーロッパの人々が何千年も同民族内だけで結婚し合って遺伝的な特徴を維持するようなことにはなっていない。何千年も同じ地域に住んでいれば自然と混血が進み、元々のルーツの特徴は薄れて肌の色や容貌が平準化されていく。言わばMelting pot(るつぼ)の状態である。
これに対してインドは何千年も各集団が‘‘隣り合って‘‘暮らしているのにも関わらず、明らかに混血が進んでいない部分がある。ルーツになっている種族の容貌を色濃く残した集団が存在し、さながら「煮込んだカレー」のようだ。煮込まれて混ざり合った部分もあるが、元の具材もそのままの状態で確り残っている。

この状況をもう少しビジュアル的に分かりやすいように解説していく。




【ケーススタディ】洗濯用洗剤のCM

特定の民族の容姿や身体的特徴について語ることは、日本では極端にタブー視されている。しかし、「インド」では、身体的特徴と社会階層との間に関連性があり、インド民自身も相手の身体的特徴を見ることで様々な情報を得ている。つまり、「こういう姿の人は、きっとこういう層の人だな」という見当をつけながら社会生活が営まれているのがインド社会の実情である。
身体的特徴と社会階層がどのように結びついているのか、インドのCMを見ると非常によく分かる。なぜならCMの中に登場する社会像というものは、インド民がインド民のために自分で作成したものであり、実際のインド民目線から世の中の見え方を示す意味で貴重な資料である。そこに外国人の偏見は反映されていない。
 
次の洗濯用洗剤のCMを見てみよう>

このCMの主な登場人物は以下の通りである。

人物A 色黒、明らかに田舎で暮らしている。洗剤の匂いに感動
人物B 金持ち俳優。色白で筋肉質な体格。高級車に乗っている
人物C 金持ち俳優のパートナーの女、同じように色白で美人

このCMで描かれている社会は、
A:貧乏人や田舎者は、肌が黒いドラヴィダ民族の特徴が強くでていて、背が低く色黒でやせ型又は肥満一方でB:イケメン・金持ちは、色白で大柄な体格で整ったアーリア系の特徴がよく出ている容貌で描かれている。そしてBのパートナーであるCも、Bと近い特徴を持った色白な美人で平仄を合わせてきている。

このCMと同じようなプロット(市井の色黒で小さな人々と、色白で大柄で富裕な人々)はその他の生活用品のCMや映画でも多数登場する。これこそがインド民の目に映っている社会であり、彼らの日常の集約と理解してよいだろう。つまり、大まかに言えば白く大型な人々が社会の上層にいて、下層に色黒で小さい人々がいる。恋愛や結婚など親密な関係は同じ似通ったグループ内で行われる。これが逆に描かれていたり、BのパートナーとしてAの女性版のような人物を描いてしまったら、視聴者も違和感を持つだろう。

インド民の容姿や身体的特徴とその社会性との関係について、ある程度の事前知識を持っておくことは、相手の信用度やバックグラウンドを推測したり、身の安全を守ったり、関係性を構築するうえで必要な感覚であり、インド民自身もこの感覚と持って相手のその組成を値踏みしながら生活を送っている。
 
次にこの点をインドの実社会に置き換えて観察してみる。
 


(A)体が小さく、肌が黒いグループ

洗濯のCMに登場したAのインド民のように、身長も低めで、肌の色も黒く、多くの場合痩せているインド民のグループは、トイレ掃除やゴミ収集などの用務員、道路工事作業員やデリバリーサービスの配達員に多く見られる。
さらに如実に人間模様が対比されるのはオフィスである。インドのオフィスでは、今の日本では考えられない数の「使用人」が働いている。彼らはオフィスボースやメールボーイと呼ばれる。さらにその末端には掃除用務員、さらにそれとは別にトイレや床だけを掃除する用務員もいる。皆、身長は低く、色が黒く、ドラヴィダの身体的特徴が強い人々だ。Bのような高身長で色白なインド民がトイレ掃除をやっている姿は何年もインドに住んでいるが全く見たことがない。このグループはインド社会の中では経済的に下層を形成しているのである。
もちろん、非常に稀にドラヴィダ的容貌のインド民であっても、商売で成功して富裕な生活を送っている者もいる。そして、そもそも人口全体に占めるドラヴィダ系の割合が多い南インドでは、身体的特徴と社会階層の関係が観察しにくくなる。国外に目を移すと、シンガポールに住んでいる多くの富裕なインド系住民はドラヴィダ系種族の一派であるタミル系の人々だ。

(B、C)西欧人のような顔立ちで肌が白いグループ

有名人のなかでもCMの中のBやCの人物と同じような特徴を持った人々をすぐに思い浮かぶ。例えば、ネルー首相や、その子供のインディラガンディー首相は、肌の色も我々日本人よりも白く、身長が高く、まるでヨーロッパ人のような容貌をしたインド民もいる。(インディラガンディーは一見するとフランスのマダムのようにも見える)
元々彼らのルーツになっているアーリア系の人々は中央アジアを出自としてインドのみならずイランやヨーロッパに広がっていったので、そのような身体的特徴を濃く残していて不思議ではない。このような身体的特徴を持つ人々は、地域的にはインドの北部や北西部、そして大都市を中心に見かけることが多いが、地方の小さな農村までいくとまず見かけない。

彼らをまとまった形で見る興味深い場所は、ブリティッシュスクールである。ここに子弟を通わせるためには年間何百万円もの授業料を払う必要があり、彼らが経済的に富裕な人々であることを如実に表している。有名なゴルフ場はさらに露骨で、各ゴルフ場が出している会報を眺めてみると、メンバーになっている人々もこのような身体的特徴を持っており、Aのような特徴を持つメンバーは全くと言っていいほど見ない。つまり、肌が広く大柄なグループは豊かな社会生活を営んでいる層を明らかに形成している。
ただし、同様の特徴をもっていたからと言って必ずしも高水準の生活をしているわけではない。イスラム系のインド民にはパキスタンにルーツを持つ者もおり、彼らは容貌こそ色白で大柄ではあるが、現代のインド社会のなかではなかなか厳しい経済環境に置かれている。

(番外編)日本人や中国人のような東アジア的なグループ

絶対数も少なく、宗教的にも少数派なのでプレゼンスは高くないものの、北東州や北西部ラダックの地域には、日本人や中国人のような顔つきの東アジア的特徴を持った人々が暮らしている。彼らは大企業のマネジメント層やビジネスの席で見かけることは驚くほど少ないが、デリーの日本食レストランやホテルなどでよく見かける。これは、地元の産業が少なく大都市に出稼ぎで出ざるを得ないという理由もあるが、彼らが属する民族グループの食や生活ルールに関する柔軟性を重宝された結果である。彼らはもともと「インド」の周縁部ルーツを持つが、現在ではインド共和国の国民となっているため、その社会文化と混じる形で「インド民」化して生活している。
 
ここで紹介した例は、あくまで身体的特徴が分かりやすい集団をピックアップしただけで、その間を埋めるように、長年の混血の結果白いインド民から黒いインド民までグラデーションになっている。
しかし、全く違う遺伝的ルーツを持っていることが一目見て分かるような両極端なグループが、同じ生活空間であまり混じりあうことなく暮らしているのは事実である。この状況は、混血が進んできたとはいえ、人種・民族的多様性が維持されてきたインド社会の特徴を表している。そして恋愛結婚が増えてきた現在でも、両極端の異なる身体的特徴を持ったグループに属する男女が婚姻で結ばれるケースは極めて少ない。

以上のような身体的特徴と社会階層の話は、インド民自身の口からハッキリと説明してくれない。彼らに聞いても、「インドにはMany Different Communityが存在する」という形でお茶を濁されることが多い。
尚、これら人種・身体的特徴と経済的な社会階層との関係は、宗教的な階層関係とも関連しているが、これは次回の投稿に譲ることにする。

 


②インド民が持つ意外な従順性

インド民の性質や行動特性に関する考察は、自身の研究の全体を通じたテーマであり、ここだけで語ることは到底できない。今回は、元々インド民に対して持っていた先入観と実際のインド民との出会ってから気づいた感覚との対比にフォーカスする形で彼らの性格的特徴を述べることにする。

インド人の性格的特徴に関して日本人が持つ漠然としたイメージは、陽気、嘘つき、いいかげん、時間を守らない、といった具合だろう。実際彼らに接してみると、インド民のマジョリティはこれらの日本人の先入観を裏切らず、面白いくらいそのままの性格をしている。良くも悪くもこれらの特徴には意外性がない。しかし、ここで一つ意外な特徴を挙げるとすると、彼らの、「力が強い者への従順性」である。これはインド民の口から自分たちの特徴として自ら説明することはないが、インド民をマネジメントするような立場の人間にとっては知っておいて損はない。

インド民が持つ、力の強いものへの驚くべき従順性は英国植民地時代のイギリス人も指摘している。よって、これはイギリスの支配によって形成された特徴ではなく、インド的なオリジナルな要素の中に存在したものと言える。インド民は何か問題を咎めると、さんざんと自己主張や言い訳をしてくるが、それは主張というよりも自己弁護であり、防御本能から来ていることは過去記事でも説明した。そのため、強い自己弁護と裏腹に当人を解雇したり排除できるような権力を持った者が命令をすれば、納得していなくても指示を実行する従順性を持っている。自分が損をすることを分かっていながら実利を捨て、意地を張って信念を通すというような行動様式にはなっていない。このような性格的特徴は、「過密」と「超競争社会」というインド社会が引き起こしたプラクティカルかつ合理的な行動様式だと推測される。

尚、ここには一部の例外がある。ヒンドゥー教のカースト制度において、バラモンのように高カーストに位置づけられる集団に属する人々(その中でも特に高いサブカーストの層)は、宗教上も自己の存在を高いものと信じ込んでいるので、実際に接しているとプライドが高く従順性もいくばくか弱い印象である。この背景には、「インド」では宗教上の分類と、前述した身体的特徴と経済的特徴が結びついている点に原因がある。具体的にいえば、宗教上も上位で、経済的にも恵まれていて、肉体的にも優位性がある、という状態が生まれた時から変わらない人々が存在する。彼らはインドにおいて支配層を形成していたため、自らが支配されたり指示されることに納得感を抱きにくいのも当然であるし、経済的にも恵まれているので実利をある程度犠牲にしつつプライドを優先する余裕もある。仕事や日常生活でもこの手の人物の厄介な対応に困ることがある。

カースト制度に代表されるインドの身分制度は、日本人にとって非常に奇異なものであるため、興味を持つ人も多い。次の章では、このカースト制度が現代インドの中にどのように動いているのか、分析と解説をしていきたいと思う。

(お付き合いいただきありがとうございました。次回もお楽しみください。)

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