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インクルーシブ保育と合理的配慮①

 私の専門は校種的にいえば、小・中学校であるわけですが(大学では就学前のことを学ぶコースの学生とも接点があります)、今回、初めて、就学前の先生方を対象にした研修「子どもの保育と合理的配慮」を担当させてもらいました(子ども情報研究センター主催・人権保育・教育連続講座の一部)。もう一人サポートいただける先生がおり、いっしょにグループワークなどもまじえながら実施させていただきました。
 相変わらず、最後の内容が時間ぎりぎりになる展開でしたが、保育現場の先生方のお話も聞かせていただきながら、私自身も学びが深まる研修になりました。
 保育そのものについて疎かった私ですが、「インクルーシブ保育」の動向についても本などで学んだり、娘たちが卒園した園に行ってお話を聞いたり、学会で保育を研究されている方の報告を聞いたりして頭に入れ、準備していきました。
 そして、調べてわかったことですが、今の現状では、学校の「インクルーシブ教育」よりも、就学前、とりわけ保育園の「インクルーシブ保育」のほうが実践面では先行して広がりつつある状況があるということでした。「インクルーシブ保育」を保育園の理念の一つに掲げている園も今日では少なくありません。障害のことだけではなく、外国にルーツのある子どもも増えるなど、子ども達の背景・ルーツも多様になる中、多様性を大事にし、一人ひとりの意思・気持ちを尊重することが、かつてに比べてより重視されるようになってきています。浜谷直人さんなど、早くからインクルーシブ保育の理念や実践について研究し発信されてきた研究者や、そうした考えを受けとめ広げようとする保育の実践者たちの影響が非常に大きいと思います。また、「インクルーシブ保育」という言葉を使わなくても、そういう実践は、子どもの現状や社会の流れの中で、かなり広がってきています。

図「保育と合理的配慮」の筆者の研修スライドより

 そうした実践の中では、子ども一人ひとりの「意見」「気持ち」を尊重して聞くことが大事にされますし、保育士が集団のために設定した活動(集団での遊び・制作・表現の活動)についても、何かその時の子どもの気持ちで参加したくないことがあれば、対話を通して子どもの気持ちを受けとめ、「参加しない」ことも認めることもなされているようです(これについて、子どもの集団の中で「わがままだ」というふうにならないためには、一人ひとりの子どもの気持ちを聴き受けとめてきた「歴史」が大切であると、上の図の中の本『すべての子どもの権利を実現するインクルーシブ保育へ』でも書かれています。)
 一方で、一人ひとりの個別の意見の尊重し、個別化の方向ばかりにいってしまうと、「みんなちがって、みんないい」ではありますが、多様な仲間が協働し「育ちあう」側面が弱くなってしまいます。ですので、就学後の「ともに学び・ともに育つ・ともに生きる」につながっていくためには、子どもたちの集団生活への「参加」「協働」も大事にされ「みんなで一緒に取り組むことが楽しい」「達成できて楽しい」という経験を積み重ねていくことも大切です。(これらの点については、別稿「インクルーシブ教育の前提となるインクルーシブ保育」のところでも聖愛園の実践に関わって書きました)
 なおかつ、障害があるなどして、現状である活動に参加しにくい子ども、楽しめない子どもがいるとすれば、どうすればその子も一緒に参加でき楽しめるものになるか、保育者が子どもたちと話し合い、ルールや活動の在り方を変えることもできます。また、保育者どうしで話しあって、むしろ、その障害のある子どもができることの方を基点にして、柔軟に活動を調整したり、みんなが楽しめる活動を創っていくことも可能です。
 保育という場が、いわゆる義務教育レベル以上の学校と異なる点は、子どもの興味関心やニーズに応じて、柔軟に活動を調整したり変えたりできる点だといえます。また、その柔軟性の中で、子どもの「意見表明」も一定受けとめる余地があるといえるでしょう。(むろん、保育現場も逼迫していますから、それほど柔軟で自由な保育園もあるはずですが)
 こうした保育の場がもつ「柔軟性」が、学習指導要領や教科書による教育活動の拘束が大きく、学級集団活動のルールやルーティンが多い「学校」(特に日本の学校)との大きな相違点だといえます。視点を変え、保育の側から学校教育を見つめると、「学校」のほうは、インクルーシブな実践がもつ「柔軟性」を低下させるような画一的な縛りがあまりにも多いといえますし、その「縛り」が学校現場では「デフォルト」として捉えられ見つめなおす機会もないため、教育実践がインクルーシブになりにくいのと考えられます。
 さて、今回の私の研修テーマは「保育と合理的配慮」だったのですが、その中では、次のスライドのように、「なぜ保育において合理的配慮」をあらためて考えるのが難しいのか、ある保育園に取材に行ったときに、逆に保育士の先生から言われた一言を入れてみました。「合理的配慮って何ですか?何をするんですか?」その取材時では、私が合理的配慮についてもっている既存の知識(例えば、口頭での説明で一日の見通しがもちにくい子どもに、絵カードで一日の流れを視覚的に説明するなど)で答えたりしましたが、そもそも「合理的配慮」という言葉で「新たに・特別に」取り組むことは何なのか、保育者にとって考えにくい面があると思います。

図「保育と合理的配慮」の筆者の研修スライドより

 この質問を研修の中でも取り上げて、グループで話しあっていただきました。グループでのディスカッションでは、あるグループから「合理的配慮って言われるとわかりづらいけど、ふだん保育園でやっている、その子のできることに寄り添いながら、日々の取り組みを考えたり、やり方を工夫していけばそれでいいんじゃないか、という意見になりました」と答えてくださりました。まさしく、その通りだと思い、その研修で伝えたいと思っていた主要論点を先に言われてしまい、焦りました(笑)。

図「保育と合理的配慮」の筆者の研修スライドより(絵はフリーイラスト)

要するに言いたかったのは、(上のスライドにもありますように)すでに定まったサービスやコンテンツの場合には、障害児・者がそれに参加可能にするために何か特別な配慮を新たに設定する必要が生じますが、保育の場合には、保育活動自体がもっている柔軟性、子ども中心性が、障害のある子どもを自然にインクルードする性質をもっており(むろん、そうしたマインドが保育士になければ全然そうならないことも考えられますが)「合理的配慮」とあえて言わなくても、そうなっていることが多いということでした。要するに、保育の本質とは、障害のある子どもの合理的配慮といったものも、ある程度までは既に含んだものだということです。
 じゃあ「合理的配慮」について改めて考えなくていいのかというと、そうではなくて、これに続く研修の部分では、その言葉を通して、子どもの参加のために見えてくることもあるという話もしています。子どもの声やニーズにフォーカスを当てて、どういう環境が整えば、よりある子どもが集団での育ち・学びに参加しやすくなるか、そういったことを先生と保護者が協働して考えていく実践も紹介しました。

図「保育と合理的配慮」の筆者の研修スライドより

 このほか、「合理的配慮」において大事な要素とされる「建設的対話」に着目し、子ども・保護者の「声を聴く」ことが、その後の就学や社会参加においても、子ども・保護者のエンパワメントにつながっていくことについてもふれました。同時に、「合理的配慮」において「配慮」という日本的表現がもっている「パターナリズム」(父権主義・温情主義)やその問題性についても指摘しました。これらの点については、また、稿をあらためて述べたいと思います。
 


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