「生まれた瞬間から最期まで人間が人間らしく」 ヤングケアラーとして生きた塩谷友香さん
家庭でヤングケアラーの役割を担ったり、認定NPO法人D×P(ディーピー)の企画運営インターンの活動をしてきた塩谷友香さん。
今回は、塩谷さんの人生観や社会への想いについて、お話を伺いました。
(インタビュアー:編集長 木下智史)
1. 塩谷友香とは
塩谷友香(えんや・ともか)
・1996年生まれ。岐阜県出身。大阪府在住。
・小学生の頃から家族の介護を行うヤングケアラー※。
・2019年3月まで、認定NPO法人D×P企画運営インターン。
・多様な大人と高校生一人一人のつながりをつくる授業プロジェクト「クレッシェンド」を中心に活動。
※ヤングケアラー・・・家族の介護を行う18歳未満の子ども
(Twitterはこちら)
木下:認定NPO法人D×P(以下D×P)では、どのような活動をされていたんですか?
塩谷:通信制の高校生と関わる活動をしていました。具体的には、多様な大人と、通信・定時制の高校生一人一人がつながる場をつくる授業プロジェクト「クレッシェンド」を運営していました。
塩谷:大人が一方的に教えるのではなく、「年齢関係なく、こういう生き方もあるんだな」と知ることができるような対話やゲームなどを行います。
木下:やりがいや、心が動く瞬間はなんですか?
塩谷:D×Pでは、生徒を変化させようとはしていないので、「よっしゃ!」「やったー!」という感じはないのですが、1人の人として関わって、目の前の高校生一人一人から学ぶことが多いです。
2. D×Pでの経験
木下:D×Pには、どのような経緯で入られたんですか?
塩谷:もともと、教職を目指して三重県の大学に通っていたんです。でも、私自身の価値観を大学の雰囲気に合わせることが難しくて、だんだんと大学に行けなくなって、家から出られなくなりました。
塩谷:そして、「私はここに行かないといけない」「ここじゃないとだめだ」と思い、2016年の冬からクレッシェンドのボランティアに参加しました。
木下:ボランティアに参加してみて、どうでしたか?
塩谷:難しかったけれど、それまで自分が肩に背負っていたものが少しだけ軽くなったような感じがしました。過去の自分の話をする時間があるのですが、私が介護の経験を話して、高校生が自分の経験を話す過程や一緒に参加していた他のボランティア(コンポーザー)の方との関わりの中で、「もしかしたら自分の経験にも意味があるのかもしれないな」と感じました。
塩谷:聞いてあげるというよりは、私の話を聞いてくれている人がいるという感覚が近かったです。
木下:ボランティアをするつもりが、逆に助けられて、自分の居場所になったということですね。
塩谷:はい。ボランティアってやってみるまでは偽善だと思ってたんです。でも、D×Pのボランティア(コンポーザー)は「助ける」とか「支援する」「教える」ではなく「対等」なんだな、と思いました。
木下:「対等」という言葉がありましたが、「対等な関係がいいな」と思い始めたのはいつ頃からですか?
塩谷:ずっと前からです。家庭の事情でしんどかった中学生の時に、1人の人として関わってくれる先生がいました。その人を見て、「私もこんな人になりたい」と漠然と思っていました。
木下:D×Pで学んだことや、今に活きていることをお聞きしたいです!
塩谷:D×Pで活動するようになってから、年齢や性別でひとまとまりにしてしまいそうになるところを、目の前の一人一人の人に目を向けたり、その人の背景にあるものに対して解像度高く想像してみようという意識は以前よりも深くなったように思います。
塩谷:孤独感はずっとあるけど、人に原因を求めるのではなく、人々がその言葉を使ったり、行動をしている理由を考えるようになってから、生きやすくなりましたね。
3. 死から始まった人生
木下:塩谷さんって、D×Pに入る前はどんな生活を送っていたんですか?
塩谷:中学生の時、円形脱毛症で髪の毛が全部抜けてしまいました。それで、「落ち武者」とからかわれたりして、先生たちもどう対応したらいいのかわからない状況になりました。
塩谷:「周りの人はみんな敵だ」と思ったんですけど、その先生だけは外見とかではなく、芯の部分を見てくれました。
木下:円形脱毛症になったのは、どんな経緯があったんでしょうか・・・?
塩谷:当時は自覚はなかったのですが、家庭内でケアラーとしての役割を担わなければならず、それもストレスの要因のひとつになっていたのかなと思います。その当時は、祖父が認知症で深夜に徘徊するのを小学生1人で止めていました。
塩谷:異常と思われるかもしれないけど当時の私にとっては、そもそもそれが普通だったから、社会の課題だとも思わないし、誰に相談したらいいかわからなくて、今思えばその「状況」はしんどかったです。
木下:なるほど・・・。小学生の頃から介護をしなければいけなかったんですね。他の家族はどんな状態だったんですか?
塩谷:祖父母と叔父が別の家に住んでいたのですが、叔父は夜中に家を出て、昼まで市場で働いていました。私は兄弟と親と一緒に住んでいましたが、父は仕事、母もパーキンソン病を患っており、平日も休日も祖父母の介護を手伝いにいっていました。
木下:そんな家族について、今ではどう考えていますか?
塩谷:私は血縁関係の家族の存在も自分自身のことや距離感を大切にしながら関わっていけたらと最近は考えています。ただ、血縁関係のみを「家族」とすることに私は少し息苦しさを覚えることもあって。
塩谷:私の原体験が全てにおいて一般化できるとは思わないけれど、血縁関係だけに縛られすぎなくても、家族や親子だからとはいえ別々の人間で同じ価値観を持つとは限らないし、どんな人とでも「私とあなたの関係性」だなぁと思います。
4. 大学生活
塩谷:その後、大学に通っていましたが、2年生の途中から行かなくなりました。最初は寮に入っていたのですが、徐々に「死にたい」「消えたい」と思うようになりました。今も「生きるぞ!」という気持ちはありません。
塩谷:「生→死」という流れではなく、「死から始まって、生きることに意味はないけど、行動してみたら違う視点が見えるかもしれない」と思って生きています。
木下:死ぬことを考えたこともあったんですか。
木下:塩谷さんは、自分の人生や生き方について考える時に、「自分が人と違うな」といった感覚を持っていたりしますか?お話ししていて、あまり「周りに合わせなきゃ」という意識が見えないような気がしました。
塩谷:そもそも、「常識に当てはまろう」「周りがそうするから、そうしないといけない」という意識はなかったです。「周りは一人一人違うし、常に私は私の道を行く」という感じです。
木下:いつ頃からそう考えるようになりましたか?
塩谷:小学生の頃から「違うな」って思ってました。周りと比べる意識がなかったです。
木下:どこかのタイミングで変わったというより、そもそもそういう人間だったということですね。
塩谷:はい。協調性がないんです。大学では友達作りとかに置いてかれないようにしなきゃって思ったけど、そういう時に逃げる習性があります。息苦しさを感じることもあるけど、自分自身の意思を大事にしています。だから、中学校も行ったり、行かなかったりしました。
5. 描く未来
木下:塩谷さんは、ご自身の将来について、どんな風に考えていますか?
最後に、今後の展望をお聞かせください!
塩谷:年齢やバックグラウンド関係なく様々な視野や視座に立てる人になりたいです。そして、生まれた瞬間から最期まで人間が人間らしく在れるような「環境や境遇に関係なく自分の可能性を信じてみられる社会」を創りたいです。
塩谷:具体的には、ヤングケアラーの経験を活かして、介護の問題を周知したいです。アプローチされるよう、まずは知ってもらうことが大事だと考えています。また、地域の中に居場所づくりや、執筆活動もしてみたいです。D×PのようなNPOだけでなく、企業などで様々な働き方・生き方をしている人の声を聞いて、幅広い視野を持ち、いろんな人とVisionに向かって動いていけたらいいな、と思います。
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「生まれた瞬間から最期まで人間が人間らしく在れたら」
そう語るまなざしには、なにもかもを受け止める姿勢が見えました。
「大きな逆境に向き合い続けてきたからこそ、逆境に立っている、立とうとしているすべての人々の受け皿になるのではないか」
そんな言葉が浮かんでくるような方でした。