Web3×メタバース×自在化身体=?|稲見昌彦×尾原和啓対談シリーズ 第3話
Web3バブルを超えて
稲見 國光(宏尚)さんが本、書かれたので、私も読ませて頂きました。メタバースやWeb3.0といった新たな概念が出てきたとき、個人の願望を仮託するのはよいけど、正しくない理解と意図的な歪曲に基づいて、変なバズり方をしてしまうことがある。それはおかしいよねっていう話は多分國光さんも含めみなさん、共通してると思うんですけれども。
もちろんエンジニアとしてブロックチェーン技術はすごい面白いと思いますし、メタバースはメタバースで面白くて、それが変なくっつき方をしないために、どういうところを留意して、またどういう良さを高め合えば相性が良かったりするんでしょうかね、尾原さんがご覧になって。
尾原 そうですね。Web3.0自体は、物事の関係性をスマートコントラクト、つまりブロックチェーンを活用したプログラミングで実装することで自動化して、中心がなくても自動的に動く組織、すなわちDAOを生成できる。そこでのお金のやりとりにトークンを使うことで、場の価値が上がればトークンの価値が上がる。そうすると先に頑張った人が後でいい思いができるから、頑張ろうっていうインセンティブが生まれる。そういうコモンズを一緒に育てていきましょうってところや、スマートコントラクトでコモンズがちゃんと監視されるから、中心の腐敗みたいなことがないというのが僕が好きなところです。
でも一方で今のWeb3.0とかDAOとかNFTは、トークンの価値が上がると「先に売り抜けたやつが得するじゃん?」っていう投機性をどうしてもはらんでしまう。そういう過剰な期待が1回、バブルはじけるまでは適切な期待にならないので、「早くバブルはじけないかな」っていうふうに個人的には思ってますね。
稲見 焼け野原からもう一回やるしかないですかね(笑)。
尾原 もちろん、そういう焼け野原になることを分かってる人たちは、ちょっと距離を置きながら持続的なものをつくってくれてる。
ただ、今ベイエリアとかでは「ape in win」みたいな言い方をするんですよね。「変化が早いから、先乗りするにはサルのように何も考えずに飛び込まないと、波に乗り切れないよ」みたいな熱狂の仕方があって。確かにそういう熱狂の中で新しいものがつくり出されてくのはいいことなんだけど、サルのように飛び乗るとサルのように飛び降りる。
そうすると、本当にいいコミュニティに、投機的な人のラッシュ、いわばイナゴが入ってきて、イナゴが通り過ぎた後には何も残らない、みたいな。実際、本当にいい感じで進んでたDAOが、トークンの発行の仕方を間違えちゃって、投機的なイナゴに荒らされて「あーあ、ここまで開発したのにな」みたいな事例が出てしまってるのも事実なんですよね。
ただ、Web3.0の本質は、やっぱりそれぞれの役割(をそれぞれのプレーヤーが全うすることにある)。これ、アンドリーセン・ホロウィッツが「アメリカはインターネットの次にWeb3.0に政策投資すべき」って政策提言をした書類の中に出てくる図なんです。Web3.0の知的なところは、それぞれの役割で貢献することによって、場が豊かになるフィードバックループができることだと思うんです。
例えばユーザーが使うことでコミュニティが豊かになって、コミュニティという場が豊かになるから、それがミームとして他の人を呼び込むし、新しいプロジェクトも起こってくる。場の価値が高まると何よりもトークンのバリューが上がり、トークンのバリューが上がって誰かが投資してくると、その投資を配分する仕組みが生まれる。
それによって、サードデベロッパーがコミュニティを使いやすくするユーティリティをつくったり、エバンジェリストが宣伝してくれたり、コンテンツつくる人はナビゲートコンテンツつくったりみたいな形でヒューマンキャピタルを投資する。その結果、ユーティリティ性が上がって、さらにユーザーが集まってくる。理想的には、こういうぐるぐるのサイクルが生まれ得る。これがWeb3の本質だと思ってるので、「頑張ってこっちの方向に行こうぜ、えいえい」っていう。
稲見 お話を伺って少し安心しました。
尾原 少なくとも、こっちに向けて頑張ってる人はたくさんいるし。イナゴに負けないぞって思ってる人もいっぱいいるので。一方でイナゴではないけど、投資としての利得性も獲得しながら、うまく場もつくるかって思ってる中間的に頭のいい人もいるし。だから、ボラティリティが高くなるのはしょうがない。でも、技術的な要件はそろってきてるので、10年掛かりで見れば、世の中を変えるテクノロジー、ムーブメントだと本当に思ってます。
オーセンティシティを自在化する
瓜生 稲見研究室とか稲見自在化身体プロジェクトという何が出てくるか分からない我々に、尾原さんからむちゃ振りをしてほしいというか、「こういうのつくってもらえないか」「こういう研究してもらえないか」みたいなお題とかリクエストがもしあれば、いただけないかと。
尾原 それで言うと、やっぱり僕は、自在化プロジェクトが解き明かしてくれると一番面白いのは「オーセンティシティ(authenticity)とは何か」です。そこを自在化できるといいなって思ってるんですよね。
今のネットの潮流って、一言で言うと「役に立つ」は保有から利用に向かい、「意味がある」は利用から保有に向かっていると僕は思っていて。結局、SaaS(Software as a Service)やUber、Airbnbみたいな「役に立つ」方では、車という移動手段が欲しいんだったら「車を保有するよりUberとかGrab使ったほうが楽じゃん?」ってふうに、保有せずに利用する方向に向かうのが、もともとネットの潮流だったんですよ。
だけど、NFTみたいなデジタルデータが本物であることを保証するものが生まれてくると、データ自体はコピー可能なんだけど、まさにこのNBAの動画と選手カードは唯一のものであるって保証してくれたら、高いお金払っちゃうわけじゃないですか。それって、やっぱり意味が発生してるから、そこにお金を払ってるんだと思うんですよね。
じゃあこの意味って何かっていうと、それがオーセンティシティだと思っていて。その人にとっては、思い出のプレーヤーのかけがえのない一期一会なベストプレーの動画っていう意味が発生しちゃって、その人にとってオーセンティックだから、お金を払っちゃうわけですよね。
瓜生 オーセンティシティ、真正性というと、ベンヤミンみたいな感じですかね。「何がアウラか」みたいな。
尾原 アウラって言っちゃうと、そのとき、その場に感じてしまう、なぜか自分が心動くものじゃないですか。オーセンティックってもうちょっと時系列だったり、文脈が折り畳まれてて。
稲見 過去のコンテクストも合わせての話ですからね。
尾原 はい。だから、最近アメリカのECの中では「ヘリテージ(伝承)が大事」みたいな言い方になってきたんですね。ネット社会じゃいいものなんて、すぐにインスタとかでぶわーっと広まって「うわ、これ、かっこいい」ってなると、中国の工場がぶわーって作って、いいものがすぐに安い値段で買えるようになっちゃう。
やっぱりコピーできないものって文脈とかストーリーだから、どうやってブランドはヘリテージを持つべきか。でも、単なるヘリテージだとそこに買う意味が生じないから、ヘリテージと、今やってることを直線でつなげていくのがオーセンティシティっていう文脈で捉えられてるんですね。
「真正なもの」のつくり方
稲見 オーセンティシティという言葉とその構成要素を考えると、個人に持ってきた場合はアイデンティティとイコールになりそうな気がします。そこを外化したものがオーセンティシティなんですかね。
尾原 そうです。自在化プロジェクトの話に戻すと、ものの中ってオーセンティシティがむちゃくちゃ練り込まれてるわけですよね。
例えばこのしょうもない僕のアバター1つとっても、このたなびく赤マフラーには仮面ライダーからの由緒正しき「正義の味方は赤マフラー」っていうオーセンティシティが練り込まれてたりとか、やっぱりこういうファンキーな踊りを踊るデブって、ブルース・ブラザーズの流れから来てるよねとか。ものの中にはいろんな意味が練り込まれる。さっき稲見先生がハッシュタグみたいな言い方をされましたけど、この辺をもっといじれるようになると、人が価値を感じてしまうところを深掘れんじゃないかなって。
稲見 これって、キュレーションの機能なんじゃないですか。作家が意図しないようなことも含めて、きちんと他の先行事例とか文脈をつむぐことによって(オーセンティックな)価値として提示するという。キュレーションの機能は、まさに(真正な取引の履歴を記録できる)NFTで重要な話ですし。
尾原 でもあると思います。今、ベイエリアではブランドビジネスをつくるときに、コンポージングカルチャーみたいな言い方するんです。クリエーターとキュレーターは違うし、クリエーターとリミキサーは違うし、リミキサーとテイストメーカーは違うし、もっと言うとワールドビルダーっていう人もいる。この5つの職種のコラボレーションの中で、カルチャーはつくれるっていう言い方をしたりする。
稲見 こういう役割って、個人の中で意図的に切り分けることはできるんですか。
尾原 役割が定義されると、だんだん使い分けれるようになってきますよね。技術でそれがイネーブルされると、より意図的になってきて。
リミキサーみたいなものが現れたのってやっぱりDJツールが発達したからだし、キュレーターが活躍しやすくなったのはやっぱりタクソノミーだったり、ハッシュタグだったり、データベースがやっぱたくさん生まれたからだし、テイストメーカーみたいなものができてくるのって、やっぱりBlenderとかPhotoshopとかで全体のテイストコントロールがテクノロジーによってしやすくなったから。ワールドビルダーは、昔はディレクター(監督)という名のもとに、黒澤明とかが「空の天気がもうちょっと変わるまで待つ」みたいな殺人的なことを3日やる感じだったのが、今やAdobeのソフトでつくれますねって話だったり。
オーセンティックな身体とは
瓜生 研究のキーワードとしては、「身体の真正性」っていいですね。
尾原 身体って(他者とのコミュニケーションで独自の役割を果たしていて)、例えば僕も体重が80キロ超えた途端に「尾原さん、優しいですね」って言われるようになるとかね。
え?って。中身、変わってないと俺は思うんだけどって。でも、80キロ切って、ちょっと頬がこけてくると「尾原さん、最近とげとげしいっす」って言われるし。
稲見 物理アバターによって変わっちゃう(笑)。
尾原 そう(笑)。だから、身体の中にはいろんなバイアスが練り込まれてる。自分の髪型1つ、靴選び1つが、いろんなオーセンティシティを自然とキュレーションしちゃうし、自然とリミックスしちゃうし、自然とテイストメークしちゃうし、最終的には自分というワールドをビルドしてる。それを、もっと自覚的なのか、エマージェントにかき混ぜるのか、両方の方向性で自在化できると楽しいなって思いますね。
稲見 それはすごい深いお話だと思います。自分の身体かどうかの定義の1つは、自分がそれぞれのボディーパーツに対して、きちんと信頼を置いてるとか、まさにうそ偽りなく、幻覚ではなくて自分のものなんだって思えることでもあるんです。
でも、そういうふうに思えて、オーナーシップを持ってるからといって、思いどおりに動かせるかというとそうとも限らない。一番破壊的な例は、けがとかしてリハビリからやんなくちゃいけないときは、自分をもう一回、構築していくことになると思うんですが、そうじゃなくて、動かせるなと思っても、例えば有名なスポーツ選手のように動けるかというと、それはそれでまた違ってくる。今までは、動けないというのも1つの自分の構成要件で、それを自覚することが、自分の分をわきまえることだったのかもしれない。
ところが、そこら辺の能力も変えることができるようになってきたわけですよね。そのときにもう一回、先ほどの真正性を再設計していくツールなり過程がきっと必要なんじゃないかなというところを、尾原さんにご指摘いただいたと。
尾原 しかも、困ったことに人はある程度の範囲の中でコントロールされない方に魅力を感じてしまう生き物だったりもするので。カイヨワのアレア(運、賭け)とミミック(模倣)と……ではないですけど。オーセンティシティに関しては、さっきの機能とミスティークって話に、もう一回、解像度を上げて戻ってくるのかなって思ってます。
流動する身体の真正性
瓜生 本来、人間って変化するのにもかかわらず、真正性が画一的に規定されてるかのように扱うのはどうなんでしょう。変化可能な、自在に操作可能な真正性っていうのは、何か矛盾してるようで。本来、真正性ってそういうもので、身体の真正性ってまさに変化の象徴だし。
尾原 そうそう。オーセンティシティってナラティブ(物語)の中に練り込まれるので。ナラティブって常に揺らぎながら変わるものですからね。実際の身体もおっしゃるとおりで、髪の毛も伸びるし、肌も日焼けするし、年も取る。
瓜生 私の専門は弔いなので、真正性っていうとまさに遺影なんですよね。遺影ってまるで複数のご遺族の総意で決まったかのような1枚の写真なんですけど、そんなわけはなくて、みんなにとってその人の真正性は違うはずなのに1枚に決める。最小公倍数を取ってるような、まるで民主的に決まったかのような1枚なんですが、やっぱり変だなとすごく思っていて。
尾原 最終的に本当に自在化できるようになると、フィジカルもバーチャルも両方、全てのパラメータを調整できるようになるし、客観なんてものがあるかは置いといて、僕の主観と稲見さんの主観の両方のパラメータで変えれるようになっちゃう。だから、このパラメータを固定して、深掘って、深掘りが終わったら別のパラメータを固定して、深掘ってってことをやるしかないですよね。
ここまで、「間主観性のフィルタリングできるじゃないか、キャッホー」ということも話したし、フィジカルなものに練り込まれる、個人が感じるオーセンティシティをチューニングする話もあるし。そうやってある程度、解像度が高いオーセンティシティができるようになったら、みんなが見てるオーセンティシティを共同幻想に変えることによって、ブランドの力にしていきましょうみたいな話かもしれない。そうやってぐるぐるしてくんじゃないですか。
瓜生 そういえば、頂いたお写真には何か(意図が)あるんですか。
尾原 この中には、赤マフラーっていう正義の味方感と、これはバティークで作ったやつなので、ちょっと東南アジアの民族風なテイストを出しつつ。耳にヘッドセットしてるのもあえて残して、「常に情報取得してるサイコパス」っていうものを練り込んでます。
瓜生 ちなみに左(稲見教授の写真)は私が撮ったんですけど(笑)。今はなき「リビングラボ本郷」で。
尾原 本当だ。すごくいい写真。デザイナーズラボっぽい感じもいいですよね。
ここでも、さっきの話みたいに、リビングラボっていうオーセンティシティの中にいる自分って、アイデンティティがちょっと重なっていいな、みたいなこととかを自然とキュレーションしたり、リミックスしてるわけですよね。人間ってアンコンシャス(無意識)にそういうのを重ねていて、その連続性の中に自分のアイデンティティを多分、錯覚しながらつくり上げてってると思う。
稲見 アンコンシャスな部分への働き掛けについては、よくアンコンシャスバイアスというふうにネガティブな言われ方もしますけれども、デジタル世界のエコシステムの中で、逆にそれを積極的に使おうという取り組みもあったりするんですか。
尾原 典型的なのは「いいね」中毒に対する反応じゃないですか。
「いいね」とタイムラインというFacebookの二大発明が、僕たちのアンコンシャスバイアスに対するマニピュレート(操作)に関して、ものすごい議論を生んだわけですよね。あれって、自分が欲しいものがぱっと見れるっていう情報の自在化を進めたけど、一方で誰かの手によって自分のアイデンティティとか自分の嗜好性が操作されるっていう壮大な実験なので。
例えばインスタグラムって、はやり始めたときって、みんなバーベキュー(の写真)とかを上げたんですよね。やっぱり「外でリア充してます」みたいなのに「いいね」が集まるから。
次の段階は、みんながバーベキュー上げ過ぎるから、だんだんだんだんダイバーシファイ(多様化)して、カフェに行く人とか、道端の花を上げる人みたいに、ちっちゃいクラスター化して。でも、ちっちゃいクラスター化すると「いいね」の数がもらえなくなるから、どういうところに行ったかっていうと、結構な人がボランティアをするようになるんですよね。利他的な行為って、みんなから気兼ねなく「いいね」がもらえるので。
武邑(光裕)先生が「誇示的競争はやがて利他に至る」という、ものすごいアイロニカルな大事なメッセージをされていて。これって多分、「『いいね』が発明されたおかげで、みんなボランティアするようになったんだ。ありがとう、Facebook」っていう。
稲見 いい話ですね。
デジタル記憶を忘れるには
稲見 最後に伺いたいなと思ってたのが、アンコンシャス化が大切なのと同じように、人間が生得的に持ってる、忘れることの価値についてです。忘れることは、ネガティブなだけじゃなくてだいぶポジティブな行為でもあって、それこそ先ほどフォトメモリのことをおっしゃってましたけど、本当は忘れた方がいいこともあるわけですよね。
そこで、今後デジタル世界の中で、忘却ってどう設計すればいいんだろうか。というのも、6本目の指とかを使うと、その感覚って実はなかなか忘れられないんじゃないかと。
尾原 ああ。自在化によって、6本目の指が持てたら、なくなったときにファントムペイン(幻肢痛)を起こしちゃうってことですね。すげえな。
稲見 情報技術じゃなくても、例えば(一度乗れるようになったら)自転車に乗れなくなるって難しいんですよね。忘れるのが一番難しいのが情報空間であって、その中で忘却ってどう設計すればいいのかなと、ずっと悩んでるんです。
尾原 僕は忘却は難しいので、上書きしかなかろうって思ってますけどね。リセットするチャンスと上書きするチャンスがあれば。
しかも、リセットした後にポートフォリオを多次元に組めれば、デジタルタトゥーが残っても、それをタトゥーって思わないコミュニティの中で自分をつくり直すことが2つ3つできれば、その人にとって致命傷じゃなくなるんじゃないですかね。
稲見 そこがないと、いくら分人やアバターをつくったところで、(過去の)ネガティブな部分に足を引っ張られると申しましょうか、チャレンジしにくくなっちゃうと思って。
尾原 この辺は医学的な論文があるわけじゃなくて、僕の主観的な感覚なんですけど、PTSDとかを治すときに、自分の中にできた(トラウマの)穴ぼこをのぞきに行って「俺は大丈夫、俺は大丈夫」みたいにすることが多かった。でも最近はネガティブのトラップにはまらないように、別のところでポジティブフィードバックつくって、ネガティブの力に負けなくなれば別にいいんじゃね?っていう感じのアプローチが増えてるような気がしてます。
稲見 こちら側を革新する技術を真面目に考えたほうが、技術的に本質的に難しい忘却の設計よりは生産的かもしんないって感じですかね。
尾原 はい。だから、デジタルタトゥーがあったとしても、「いや、あっても、おまえだからさ。俺は今のおまえが好き」って言ってくれるコミュニティをできるだけ育んで、その中のフィードバックで自分が生きれるって思えればデジタルタトゥーが残っても別にいいし、むしろ「昔、ああいうこともあったけど、あったからこそ、今のポジティブフィードバックなコミュニティがあるんだ、俺」って言える社会をつくったほうがいいんじゃないかなーって思ってます。昔に対する償いをある程度していて、今の自分の冒険を愛してくれる仲間が生まれれば、ネガティブも物語の一部に変わるので。
稲見 すごい前向きなご示唆を頂けたと思います。本日はどうもありがとうございました。
自在化身体セミナー スピーカー情報
ゲスト: 尾原和啓
IT批評家
ホスト: 稲見 昌彦
東京大学先端科学技術研究センター
身体情報学分野 教授