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モノをもらわない誕生日が嬉しい、36年目のはじまり。

東京出張から北海道に戻る間際、夫が万年筆のお店に連れて行ってくれました。


「誕生日なにが欲しい?」の質問に毎年こたえられないんだけれど、今年は初めて欲しいものが見つかって。そうしたら、すでに夫が私に贈りたいなと思って考えていたものと同じだったみたい。


考えてくれていたこと、自分に必要かなと思うものが夫の感覚とも同じだったこと、それだけでもおおきなギフトだなと思いました。人との関係性や、手に入れるまでの時間で、モノの価値ってこんなにも変わる。


万年筆。とてもかっこよく感じて、学生時代にすこしだけ使っていた時期があります。子育てがはじまってからはもう…子どもとの共存がきびしそうで、求めようとも思わなかったのですが。


1年ほど前、こちらへ来てからなかなか会えなくなってしまった友人から突然本が届きました。


贈られたその本からその時の自分が受け取れたものは、彼女が本に託したメッセージのごく一部かもしれないし、まったく意図しない部分かもしれない。本は読み手にゆだねるところがおおきいから、そこも彼女らしくて。言葉だけじゃない彼女の表現力に久しぶりに触れられた気がして懐かしくなった。


私は贈られた本の読書エッセイをもって、とある公募にエントリーしてみることにしました。めいっぱいの彼女らしさへのレスポンスとして。


お互いを知りたい・理解したい、と思えば、直接会って対話をすることでしか踏み込めない部分はあると思います。それでも、会えるその時までをどう過ごすか、どう関係性を築いていくかを思うとき、私は「書くこと」そして「読むこと」で自分を知り自己一致を深め、他人との強い繋がりを得てきたことを回顧します。人とゆっくり対話する機会をつくりづらい今の境遇が、私にとってのそれらの価値をずっと高めてくれた。


「実際に見てふれる機会をつくってあげたくて」と夫。たくさんのディスプレイがある空間に身を置いてそれらを眺めるだけでも、たくさんの感情が動きます。(その場では反応薄かったよね)


万年筆を手に入れられたら。その万年筆は、私にとって“読み書き”とりわけ「書くこと」が特別である、ということを象徴してくれる存在になるんだと思う。夫からプレゼントして欲しいモノがはじめて見つかったのは、やっぱり、夫と共に自分はここでどう生きるか、心のなかで定まってきたからかな。


機能性や価格はさまざまで、なんだかもったいないような気がしたのが本音だった。一年後、もっとワクワクした気持ちでそれを迎え入れられる自分になろうと決めて。会える時までを、書いて、書いて過ごそう。そんな36年目のはじまりに、想いをここに載せておきます。


朝一のジャーナリングが外でできる季節に。
子どもを遊ばせながら🖊️

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