美術・音楽の授業は「プレイできなかったしょんぼり」しか残らなかったけど、アートを楽しむのにそんなことは関係なかったこと。
知人の下記ツイートを受けてつらつらと返事をしていたら、アートについての個人的体験を書いていました。
味の開拓者たちが様々な手法や材料を駆使して料理界と我々の新たな価値観や味覚を開拓してきたように、アートにもそれが(議論はされながらもお互いが試行錯誤し)許容されてもいいじゃないか。それが私たちの心を豊かにしてくれると願いながら。
って感じました。
本当に料理もそうですね。
料理って、その国や土地の風土・文化にすごく根付いていて、積み重ねられたものじゃないですか。
それは教えられなくてもみんな肌感覚で分かっていて。
だから、「マグロの刺身にマヨネーズ」みたいなそれまでの文脈にないものが登場するとギョッとすることができる。
ぼくが最近思うのは義務教育のときにもっと『美術史』や『音楽史』をきちんとやってくれたらいいのになーということです。
教育の場にはなぜだか表現至上主義みたいな信仰があって、「自由に表現しましょう」みたいなことをやられ続けるんですけど、ぼくは正直疑問で。
表現したいことなんてそんなに転がってないです。「個性」という概念だって怪しいと思っています。少なくともぼくは。
そんなぼくですが、三十代半ばに金工作家の角居康宏さんとお喋りするようになって、その中で美術の大まかな流れ(ルネサンス・バロック・ロココ…)のさわりを何度も教えてもらって。
「ん?つまりはカウンターじゃん」
「しかも、音楽と美術はつながっている?」
「音楽も美術も『美しいもの』限定ではなくなった?」
と、今更ながらに基礎知識を教えてもらってアートに興味をもったんですね。
それで、初めて美術史入門書を読んでみたら「面白いじゃん!」と。
それまで自分と関係ないと思っていた美術館にも足を運ぶようになって。
しかも、同時期にネオンホールで演劇も観るようになったら、そこにも繋がっているんですよね。演劇でも芸術や音楽と同じように流れがあった。
ほんと、「すっごい損したー!」と思いました。
三十代まで全体の流れを知らなくて。
西洋美術史は一側面に過ぎないけど、それでも全体の文脈を把握しているだけで、「いま作られている芸術」に触れる際に、自分の咀嚼できる量がまるっきり違うわけです。
面白さの量が全然ちがう。
すっごい損したと。
例えばミレーの『落ち穂拾い』や『種まく人』なんて、学校の教科書で見て知ってたけれど、「ふーん」でした。農民好きなのねと。
(画像は『パブリックドメインQ:著作権フリー画像素材集』から使用しました)
でも、美術史をみると「当時は激しい論争の的になった」と知ってびっくりするわけです。
そんなの言わなくちゃ中学生わかんないよ!
ちょう面白いじゃん。
現代からだとすごく穏当な絵に見えるけどなあ。
ミレー本人はどう思ってたの?
パンクだったの?どうなの?ねえねえ。
と大人になってから思いました。
「絵を描く」「楽器を弾く」といったプレイすることにぼくは憧れがあるし、素晴らしいことだと思っています。
だけど、プレイするためには「描きたい」「弾きたい」という着火材が必要で、それは万人が持っているものではなくて。
事実、ぼくには「プレイしたい」という着火材がほぼなくて、それ故にプレイに価値を求められる学校の授業は馴染めなく、自分は美術とは関係を結べない人間なんだなとずーっとしょんぼり思っていました。
でも、そんなことは全然なくて。
プレイしない人にもアートはちゃんと開いていて。
人間くさい営みで。
「はやく言ってよ!」と三十代のぼくは二十年前に授業に向かってすごーく思いました。
絵画や音楽や演劇って面白いじゃん!って。
プレイしなくても全然楽しめるじゃん!って。
考えてみれば、大人になってもプレイする人より、しない人の方が全然多いですよね。
しかも、プレイする人は自分でどんどん動ける。
大人になっても自分なりに続けられる。
プレイしない人は大人になっても「プレイできなかったしょんぼり」を覚えているだけ。
ぼくがそうでした。
圧倒的に多い層に授業でそんな不能感を植え付けるより、美術史・音楽史で「理解の仕方・ポイント」を伝えてあげた方が、その後の人生で全然楽しめるじゃん!と三十代のぼくはすごーく思いました。体験的に。
プレイできなくても、よき観客でいることはできて、それは人生を豊かにしてくれる。
ということをぼくは三十代後半で学んだのでした。
しょぼん。十代で教えてよ。
つまりは
●「芸術の文脈」という視点を持たない時期があって、本当に損したなーという実感
●こんなのはただの知識と視点だから教育は本領を発揮してほしい
●それがあればぼくたちは「すごく豊かな森(芸術)」を楽しむことができる
と思っています。
まあ、この森には魑魅魍魎が棲んでいて油断できないんですが。実際、怖いし。
だから、 #あいちトリエンナーレ の #表現の不自由展・その後 について、「不敬だ」「アートじゃない」「税金でやるな」や、「これ自体がアートの取り組みとして面白い」といった両方の声にずっと違和感があります。
何というか、そんな貧しいものじゃないし、
そんなコントロールできるものじゃない。
追記)
日常は「日常」だけでは崩れる。
日常の外にあるアートはぼくたちにほんの少しの力を貸してくれる。
と思ったことについて書いています。
よかったらご覧ください。