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ほら、やっぱりね...

今、連日、巷はパリ五輪の話題で持ちきりだ。
そういえば私、ほぼ1年ほど前、五輪準備真っ最中のパリを訪れた。

スケートボードや自転車BMX、ブレイキンなどの会場となるコンコルド広場。五輪開催ほぼ1年前の様子

人からの依頼があって、ある物をフランスに届けることになったので、仕事半分、ついでに少し観光をした。
アポとり、その前からの連絡は勿論、渡航の手配、何から何まで独り作業。
荷物の梱包をクマ夫ができるだけ軽く、持ち易いように工夫してくれたのでありがたかった。
今はITの発達で知りたい情報を瞬時に把握できるし、連絡もスムーズだ。その分、物事の進行するスピードも早く、刻々と事象が変化する。グズグズしていては間に合わない。
渡航費は依頼人が出資してくれたが、昔の感覚しか持たない方だったので、現状を理解した金額は出してもらえなかった。

特に酷いのがホテル事情だ。
コロナで1軒の常宿は廃業、あるいは生き残っていたとしても五輪前、オーバーツーリズム、ウクライナのことなどのせいか、価格が4倍にも跳ね上がっていて、限りある予算の中でとても泊まれる値段ではなくなっていた。
何とかウナギの寝床のような安宿を市内に見つけた。
フランスは昔から何かとストライキを起こす国。加えて近年は暴動が激しいので、市内でないと身動きがとれなくなる危険性が高いのだ。

渡航のゴタゴタはありすぎるくらいにありすぎて、その話はまたの機会に譲るとして、今日は先に書いていた友人との再会について話す。

その友人とは携帯電話が普及するずっと以前、30年近く前に、私がパリにいた時に知り合った。
その後、度々パリに渡航した際に、生まれたお子さんに会ったり、私も夫を紹介したりして家族ぐるみで付き合って来た。
だが、私も20年以上渡航することができず、しばらく経つと連絡が取れなくなってしまった。

久しぶりに渡航が決まったので、渡航半月前に手紙を書いて送っていたが、返事がなかった。
そこで、以前に訪れたことがあるので、今回も実際に住んでいる場所を訪れてみれば何か分かるだろうと、行ってみたのだった。

実際に訪れてみると、小さな路面店がモダンで大きなレストランになっていて、以前とは大きく変わってしまっていた。
何か分かるかもしれないと思い、レストランに入ろうとしたら、リュック・ベッソンの映画でやられてしまう側のような革ジャンを着たイカつい男性が3人出てきた。
「午後3時だから閉店だよ。何かご用?」
と、一人が言った。
そこで私はここに以前あった小さな店のこと、その店主の名前などを告げた。
「ああ、彼の知り合いなの? ボクも友だちだよ。彼らは引っ越したんだよ。あっちの方に店がある」
と、教えてくれた。

あっち、と指差された方に必死で歩いたが、その通りの長いこと長いこと。
延々歩いて、それらしき店が見当たらない。
何度か往復し店を探す。人通りが少ない中、人を見つけては尋ねたが、誰も知らなかった。

諦めかけてどん詰まりにあった小さな脇道を入ると、可愛い作りの店がある。
ショーウィンドーを覗くと、年を経っているが知ってる顔とよく似た顔がある。
「彼のお父さんだ!」
と思い、店に入りしな、名前を言ってみた。すると、
「ボクです」
と言うではないか!
ああ、私も20年、年を経たように、彼も年をとっていたのだった。

そこからは再会の驚きと喜びに包まれた。
奥さんはその日はすでに家に帰ってしまったので、大急ぎで連絡をとってくれて、また、店に戻ってきてくれた。
聞けば、あの大きなレストランのオーナーは彼らの友だちで、レストラン拡張にあたり友人たちは店を売ったこと、そのお金で郊外に家を買って、自分たちの店はこの小さな通りに移転したのだそうだ。
その引越しの際に住所録を失い、連絡を取りたいと思っても、それが難しかったことなどを話してくれた。

いろいろありすぎて、昔とは世界が違っていることを痛感せざるをえなかった渡航だったが、友人たちの温かさだけは変わらなかった。

そうこうしているうちに、パリ近郊で警察官が移民系の少年を殺害したことに端を発した暴動がフランス各地で起こり、外務省から夜間の外出は控えるよう通達が来た。

ほら、やっぱりね。

凱旋門の撮影は命がけ


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