諦念と妖怪.Get to know Tono.
さて、差し迫っては定年より諦念が問題である。
定年退職を迎えるまえに、諦念で俗世を退出してしまいそうだ。
現代、わからないことが随分とわかるようになってきてしまった。
この宇宙の95%はわからないものでできている
地球生命の起源はRNAワールド仮説など諸説あるもののまだわからない
ようやく捕まえたこの世界の原則、量子力学は分からないものを見捨てることで成立した。それらを観察している意識たるものの正体もまだわからない。
わからないものがわかるようになるまではがんばれない。
わからないことの先を妄想こそすれど、先端研究するに至れない僕らは
「分かり得ないことには、沈黙すべき」と安易にヴィトゲンシュタインに至る。ダサい。
そのさきが問題である。
わからないことがわかるようになり、諦念後の世界の色彩についてが差し迫った問題なのだ。
科学は残酷だ。火の神を殺して、火をプラズマ現象にしてしまった。
ご先祖が輝く星々を、太陽光の反射する岩やガスにしてしまった。
せっかく想像した妖怪変化も尽く解釈されてしまった。
河童は猿か、飢饉により間引きされた子どもだった。
座敷童も豊かな家の子どものようだし、鬼は製鉄技術者や外国人だったらしい。
不思議のない世界では、色彩が少しずつくすんで消えていく。
豊かに生きるということは、色を増やしていくということなのに。
この処方箋はどこにあるのか。
というところから、遠野にフィールドワークに伺った話につながる。
To knowさん、みちのりトラベル東北さんによる「しし踊りフィールドワーク」にお招きいただき、都内より数名のアーティストと共に遠野に行ってきた。
遠野といえば遠野物語よろしく、奇譚の街である。
不思議な昔話が伝承され、街の観光マップはまるでポケモンの地図のようだ。
鬼や妖怪は自然崇拝の偶像や自然への畏敬の念の現れを超えて
単に期待されるものへ変化しつつあるが
いまだ多くの人が妖怪変化など未知なるものを期待して
不思議を求めて、この土地に来る。
さて、この街に妖怪はいるのか。
と、いうよりも
「妖怪を見ることができるのか」こそがクリエイティブな問いである。
妖怪はいつでもそこにいるのだ。
深夜、妖怪の気配を感じるべく、摂氏2度の遠野の街を無闇に歩いた。
できるだけ街灯のない小径を探し、進む。
自分の装いといえば、オーバーサイズのダッフルコートに黒いハットに黒いマスク。現地の人から見れば、こんな寒い夜に1人でふらふら彷徨う自分こそ妖怪変化の類に見えたかもしれない。
遠野物語という魔法は釘一本使わずに町の景色を変えた。
体験作家として、物語を通したBeingのデザインから世界を広げ、フェスティバルという媒体の中で自ら選択を繰り返すプロセスを採用しているのも、物語と人間の相性の良さにある。
まず神話を書き、2人以上がそれを信じれば、そこに神が生まれる。神話をそのように編集すれば、そこに社会やイデオロギーも生まれる。
現象世界において優先されやすいのは科学や物理という世界の見方だが
想像世界において重要なのは「あなたがどこまで見れるか」そしてそれをどこまで信じられるか、である。どちらが現実というわけではない、どちらも現実として採用することができる。
遠野には妖怪を見れる人たちがいる
その文化があり、生活様式があり、地理的要因があり、物語がある。
妖怪がいる世界線をCo:Createしている。その高いゲーミフィケーション能力。これが、諦念後の世界への処方箋になるのではと思った。
現象世界に想像世界を持ち込むことで新たな色彩を上書きするという処方箋、儚き世界の処世術。天狗や鬼に飽きたら、新しい妖怪変化を想像すればいい。ある修験者が言っていた。
「神は想像されるのを待っている」
わからないこと以外わかった気になったつまらない世界には、想像力が足りていない。僕らはそうぞう(想像/創造)できる、物語とゲーミフィケーションで果てしないフロンティアを拡張していこう。