表現

 「存在を脅かされる経験」「多数からその存在を蔑ろに扱われる経験」というのはそんなに想像し難いのだろうか? もし、こういうことでPTSDだったら、不特定多数の人前に出るのは相当しんどいはずだし、その傷口にこれでもかとまた塩を塗り込み、烙印を重ね押ししてくるものが普通に公の目に入る場所にあったら。
 そして、自分の表現したものがまさにその「もの」だとしたら。それでも、表現は自由だから、と知らんぷりし続けるのか。
 自分の表現を大切に思っているなら、その意味はきちんと届くべき人に伝わることこそを大事にするはずで、自分の表現によって傷ついてしまう人がいるとして、それがそもそもの目的でなければ、そうならないことを可能な限り望むのではないか?
 そんな意図は(自分には)ないのに、ということもあるかも知れない。しかし、表現物というのはまた、それが初めに創作された事情とは関係なく、人に触れられることで無数の意味を生む。それゆえに、それを表現者、創作者が初めから完璧にすべてをコントロールすることはできない。でも、それでも、それがコントロールをしなくて良い、という免罪符にはならない。つまり、表現はいわば、どの、どんな表現も制約付きにならざるを得ないのだ。この前提に立たなければ、本来「表現の自由」は基本的人権として機能しない。

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