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とあるまあまあカワイソウなヤツが綴ります

とはいえ私より困難な状況から、
立派に生きてる方は
大勢いらっしゃる。

わかってる

それでもたぶん、
いわゆるフツーの方から見れば
私はなかなか可哀想だと思う。

読んでくださる方の
何かヒントになりたくて
noteはじめました。
同じような方が共感してくださったり
参考にしてくださったり
はたまた全く違う立場の方に
何かを感じていただけたり
気づいていただけたりを
目指して書いていきたいなと思います。
よろしくお願いいたします。


・最初になんか変だと思ったのは

小学6年の時、
同学年の違うクラスの全然面識ない男子、
好きでもなんでもない時々見かける子、
その子が頭からなぜか離れなくなった。
どんな子なのかもまったくしらない、
名前と顔しかわからないのに、
ぼーっとしてると頭の中に突然
その子が現れるようになって
なんだこの感じ、めちゃくちゃ気持ち悪い…
と同時になんか手が汚い気がして
手洗いの回数が増えた、
強迫性障害の症状はここからかなぁ…
手を頻繁に洗いながら中学生活を送り、
高校受験を控えた頃に「ヒステリー球」
(のどに何か引っかかる感覚)が出て
自律神経失調症と診断がおり、
安定剤、最初はごくごく軽くリーゼの処方。
わりとよく効き、一旦は諸々おさまる。

・社会に出るわけだが

・毒親は教育無関心の末

成績は小学校ではずっと、良い方でした。
ただ中学に入って少し難易度が上がると、
できることとできないことがはっきりする。
正確には小学校でも、
工作や絵画などで誰より上手にできる時と
なぜか下の下くらい下手な時があり、
自分でもなぜできたりできなかったりするか
わからず戸惑ってはいた。
思えばASDの特性なのだろうけど
それが中学で顕著になって、
得意な英語はいつも満点で
中学2年で英検2級に合格しても、
苦手な数学は毎回赤点。
高校に入ってからは理数系いつも追試、
最終的には先生が甘めに採点してくれて
ギリギリで単位が取れるありさま。
それでも毎回、英語は満点。

満点を取っても赤点を取っても、
母は何も言わなかった。
口を出さなかったのではない。
よく、言っていた、
「私は学校のことはわからないから」
私、高齢出産の子でして。
母は戦争経験者なんです。
東京から疎開してきて
その間に東京大空襲があり
帰るに帰れなくなってこちらに居付いた人。
気の毒ではある、もちろんそう思う。
想像以上に、壮絶な道のりだったと思う。
学校に行けるような状況ではなかったから
「私は学校や勉強わからないよ。
自分でしっかりやって。」が口癖でした。
進路について話そうとしても、
「わからない、わからない」と
はぐらかされた。
でも信じていた、きっと、
自分のような思いをさせないよう
私の夢を応援してくれると信じていた。

文系の大学に進んで、
英語の勉強や海外について学びたかった。
理数系ダメでもその他の教科で評価が良く、
おかげさまで奨学金を受けることもでき、
私は大学に進むつもりで高校3年間、
常に学年トップ10位をキープして、
いざ、志望の大学への願書を書いて
親に受験料を払いたいと申し出た。
そこで返ってきたのが

「そんなお金あるわけないじゃない」

あー、終わった。終わりました。
毎月の奨学金、
生活費として遣われちゃってました。
教育のためのお金という感覚が、
なかったらしいです。

しかたない。
しかなたく、就職に目標を切り替えても、
時はいわゆる就職氷河期。
まして、出遅れました。
もう高校からの紹介みたいなのもなく
自己開拓で職探し。
それまであった「学生」という肩書に
二度と戻れないのだという絶望
世界にポンと一人放り出された感覚
見つからない居場所

結局…近所の牛乳屋さんの倉庫で
スーパーへ送る牛乳をセットする仕事に
就いた。勉強した意味、全く、なかった。
それでも一生懸命頑張ったけど
そこそこ重労働だったから
腰を傷めボルトを入れる手術をすることに。
そのため牛乳屋さんを辞め…
そのあとは、ありがちな、
人間関係うまくいかず転々と職を変え
幼き頃に描いた夢が何一つ、
叶いそうにないと、思い悩む日々から
25歳、精神科を受診。
うつ病と強迫性障害とASD
の診断がくだりました。

・うつ病と診断されて

通院が始まり、治療には素直に従いました。
出された薬をしっかり飲んで
心身、無理せず休ませて…

治らないな

治らない。
おかしいな。
いや、もしかしたらもう治ってるのかな。
私は今、何者だ?
うつ病患者?それともそうじゃない?
そうワケわかんなくなってる時点で
まだ治ってなかったんだろうけど…

・恋愛?結婚?知らんなぁ

うつ病あるある、
やがて昼夜逆転の生活になった。
当時はインターネットが出始めで
「テレホーダイ」という、
夜中から朝にかけて接続料が安くなる
何か(よく知らないまま使ってた)が
あったおかげで一晩中パソコンに向かい
明るくなる頃に寝る。
でも引きこもりにはならない方がいいなと
せめて思った私は、
好きだった音楽があったので、
ライブハウスに出入りするようになった。
そこで友人知人という関わりは、
できたにはできたけど…
これもメンタルあるあるで、
手首や腕はカミソリでつけた傷だらけだし
薬の残る中お酒を飲んで迷惑かけたりで
マトモな人は離れていき…
マトモじゃない人には利用をされて
健全な人間関係は、築けなかった。
優しい人も、素敵な人も、いたけれど、
私にはまぶしすぎた。
そういうのを何度も繰り返し、
傷だけが残って、何も残らないまま、
いや正確には音楽だけが心に残り、
私は今もまだひとり。

・これからどうしたいか

言うまでもなく希死念慮の塊で、
だいたいいつも死にたくて。
希望など持ったってどうせまた…
とあきらめながら、
なのになんでか死ねなくて。

すでにいわゆるアラフィフ、
今さら持てる希望なんてあるものかと
思いながらも、
そうは思いきれずにきました。
バカがつくほどバカまじめなもので。

根が真面目だからうつになったんだし
いろんなこと考えて考えて考えすぎて
病と真剣に向き合うからこそ長引いた。
その私の真面目さに、
最後に賭けてみようと思いたちました。

「私みたいな人間もう作っちゃいけない」
「子どもや若い人にこんな道たどらせない」

経験した私だからこそできること
あるはずだなと、
教育格差貧困の連鎖に、
歯止めかけるべく何か…
なにかできないかと、今、模索しています。
これから取り組みをこのnoteで報告します。
まずは、勉強です。
最初は勉強の記録とか、
また、昔の体験談とか…
結局ただの闘病記で終わるかもだけど…

やれるだけは、やってみようと思います。
よろしくお願いいたします。

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