村上春樹を巡る父との思い出
「今、これ読んでんねん」
神戸で暮らす67歳になる親父とZoom飲みをしていると、画面の向こう側で村上春樹の新著を手に掲げ嬉しそうに教えてくれた。
親父とは共通の趣味が多くあるが、読書もその一つ。
10代の頃の僕にとって読書体験といえば、親父の本棚にあった本を読むことだった。
あらゆるジャンルの作家の本が本棚には収められていたが、村上春樹の本は発表される度にそこに追加されていった。
背表紙のタイトルや表紙を見ただけで小難しそうで、ページを開くまでもなくそっと棚に戻した本も数多くあったが、村上春樹の本にはそのようなハードルがなく、気づけば夢中になって読んでいた。
その頃からかれこれ30年以上の時が流れ、僕が家を出てすでに20年以上経っているが村上春樹の新刊が出れば、それを読んだかどうかを確認する、というのが親父と僕の数年に1度のルーティンになっている。
「猫を棄てる」は、親父と画面越しに酒を飲んだ翌日に届いた。
最近の氏の作品はボリュームもあり、読む前にちょと心構えが必要だったけれど、これに関しては、手帳サイズで非常にコンパクト。
エッセイで読みやすそうだったこともあり、読みかけの本を脇に置き、そのまま読み始めることにした。
これを読みながら思い浮かべていたのは、村上春樹を読み始めた頃のこと、その時に住んでいた町のことだった。
というのも、僕が村上春樹を読むようになったのは小学校高学年の時、10歳になった頃のことだが、その最大の理由は最初に読んだ小説、「風の歌を聴け」が僕の暮らしていた町を舞台にしていたからだ。
あの小説に登場する「猿の檻のある公園」はまさに僕が通っていた幼稚園の裏にある公園で、氏のファンにとっては今では「聖地」ともいえる場所だった。
その「猿の檻のある公園」からこの新著の冒頭に登場する「夙川」や「香櫨園の浜」へは国道2号線を車で10分ほど走れば到着してしまう。
もちろん氏の子供時代にはまだ国道も整備されていなかったと思うし、僕が過ごした時代と当時の景色は随分異なるだろうけれど、川沿いを自転車で走って猫を棄てにいく情景というのはリアリティをもって思い浮かべることができた。
小説にしろエッセイにしろ、村上春樹の本を読む時僕は常に親父との思い出や親父のことを何らかの形で思い出しながら読んでいた気がする。
さすがに村上春樹と親父を重ね合わせたことはないけれど、二人がほぼ同世代で、思春期に影響を受けた小説や音楽が共通していた事などは、僕が育った環境にも影響を及ぼしていた。
そんなことも手伝い、氏の作品には親近感を覚えながら接していた。
僕はこのエッセイを読みながらそんなことをぼんやりと考えていたけれど、親父はこのエッセイを読みながら自分自身の子供時代のこと、父親との関係に思いを巡らせていたのではないかと推測する。
祖父が他界して随分時間が経つが、「生きてる時になんでもっと会話をせぇへんかったかなぁ〜。もっと話をしたらよかったなぁ〜。」と親父が後悔を口にしているのを何度か聞いたことがある。
次回、画面越しに父と酒を酌み交わす時、何を思いながら読んでいたか聞いてみようと思う。
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