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その断絶を超えようと企てる人たちへ(映画「ナイトクルージング」のこと)


 
 久しぶりに激しく脳を揺さぶられるような映画を見た。

 *
 
 「ナイトクルージング」は映画を撮る全盲の男性を追ったドキュメンタリー映画である。
 これは挑戦する障がい者を「ネタ」にしたお涙頂戴の物語ではない。また福祉の物語でもなく、啓蒙の物語でもない。
 これは徹頭徹尾コミュニケーションをめぐる真摯な冒険の物語なのだ。

 ドキュメンタリーの主人公である加藤秀幸氏は先天的な全盲であり、視覚を持っておらず、光すらも見たことがない。それでも彼はジャッキー・チェンのアクション映画の大ファンであり(彼は台詞を聞き、効果音を聞き、時には友人や家族の解説を聞き、映画を鑑賞するのだ)、ある日自分自身でもSF映画を監督してみたいと思い立つ。
 全盲の監督による前代未聞の映画作りが始まる。
 監督は苦悩する。監督としてビジュアルのイメージをスタッフ達に伝えることが必要なのに、彼はそれを知覚する術をもたず、それを語る言葉を持たない。
 スタッフ達も苦悩する。どうやって監督の頭の中にあるイメージを具現化すればよいのか。
 監督とスタッフ達のあらゆる手段を駆使したコミュニケーションが始まる。彼らはレゴを組立て、粘土をこね、手や指先を触れ合わせ、3Dプリンタで模型を作り、互いが知覚する世界のギャップを超えようと必死になる。
 製作の過程で、監督は「見ること」を、スタッフ達は「見えないこと」を幾度も想像し、歩調を合わせて歩もうとする。彼らの真摯なコミュニケーションは実に感動的なのだけれど、時に思いもよらぬ方向ですれ違う言動はどこかユーモラスでもある。

「これは映像的には使い古されたありふれた表現だ。あまり面白くない」 
白熱する演出の議論でそんなことを口走るスタッフに監督は答える。
「俺は見たことないんだから、そんなこと知らない」

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 この作品で語られていることは、とても普遍的だと思う。
 それは人と人の間にある断絶を超えようとするコミュニケーションのあり方であり、思い込みによるディスコミュニケーションの問題であり、想像力の可能性と限界である。このドキュメンタリーにおいては監督とスタッフ達が知覚している世界が違うということが「障がい」という形で可視化されているから、両者の間にある断絶が非常にくっきりと分かりやすい。でも、二人以上の人がいる場面には、どこにだってきっと同様の断絶はあるのだ。
 話している言語の違い。生活する文化の違い。蓄積してきた経験と過ごしてきた時間の違い。
 世界を体験するフィルターは無数に存在し、そこには無数の違いがある。私達が互いに少しでも近づきたいと願うのであれば、そこには必ずや綿密なコミュニケーションで超える努力をしなくてはならない断絶がある。
 その断絶の深さに絶望することもあるかもしれない。「わたし」は「わたし」以外の世界を体験しえない以上、この断絶は決して跳び越えられない。それでもその断絶を超えようとするコミュニケーションの企ては、自分自身を超えて世界を広げようとする営みであり、いつだってエキサイティングなものであるはずだ。それは船に乗って知らない場所を冒険すること(ナイトクルージングである)と似ているかもしれないし、SF映画(加藤氏が挑んだジャンルである)の中で見たこともない世界にどきどきすることとも似ているかもしれない。

 職場で、家庭で、町の中で、いつもいろいろな場面で断絶を超えようともがき続ける人たちに、是非見てほしい作品だ。

https://nightcruising.net/
※公式サイトのデザインにもストーリーとリンクした仕掛けが施されている

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