美術館ってなんなのか (「作品のない展示室」のこと)
本来であればオリンピックに合わせて設定されていたはずの夏期休暇。
遠出をすることもできずに空白を埋めるように自転車で世田谷美術館に出掛けた。
お目当ては「作品のない展示室」
コロナ禍で海外からの作品を迎えることができない状況を受けて、作品を一つも置かずに展示室を開放しているものだ。
何が楽しくてがらんどうの美術館に行くのか、自分でも良く分からなかったのだけれど、作品のない展示室に身を置くことは美術館の魅力って何なのかということを改めて強く意識させてくれる体験だったのだ。
*
美術館には二つの魅力がある。
すなわち「ハコ」としての魅力と「機能」としての魅力。
普段作品を目掛けて訪れる時にははっきりと気づかなくとも、美術館はそれ自体が美しい建築、美しい「ハコ」である。
作品が一切ないということは、美術館自身の美しさを私たちに強く意識させる。
世田谷美術館は広々とした砧公園の中に位置し、大きな窓からは公園の美しい緑が見渡せる。
公園の中に自然に溶け込むように作られた建物なのだ。
がらんとした展示室は広く白い壁が際立つ。こんなに広くて白い壁は美術館にしか、ない。
作品がある時には気づきもしなかったけれど、天井がすこんと高くて思わぬほどの開放感がある。
人の生活に美術が深く自然に入り込めるように、また凜と美しくありながらも作品が入ったときに余分なノイズにならないように、明確な意思のもとに注意深く作られた建物であることがはっきりと分かる。
そしてもちろん、美術館は単なる「ハコ」ではない。
そこには作品が集められ、人々に向けて展示されるという「機能」がある。その機能ゆえに人は美術館に集まるのだ。
でも、私はなぜ作品が全く無い世田谷美術館にわざわざ足を運んだのだろう。一体何に惹かれたのだろう。
そして思い当たる。
私が美術館に本質的に求めている機能は作品の展示ではないのかもしれない。
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人生の中で、数え切れないほど美術館に足を運んできた。
油絵、浮世絵、写真、彫刻、インスタレーション。正体不明のオブジェのようなもの。
私は別に美しいものを見たい訳ではない。美しいかどうか理解に苦しむ表現も見たい。
思うに、私が美術館に求めているのは「気持ちをざわざわさせること」なのだ。
初めて美術に対して「ざわざわする」感覚を覚えたのは、森村泰昌のインスタレーションを見た時だったように思う。
文学部に通う大学生だった頃のことだ。
人が知らない小説や映画を見て、小難しく評論して見せることが何よりかっこよいことだと信じていた。
分かりもしないけれど、誰よりも尖ったものを見てかっこつけたかった。
そんな訳で知的なファッションとして品川の原美術館に出掛けた私は森村氏の作品に衝撃を受けることになる。
鏡張りの小部屋の中に、頭の数倍はあろうかというボリュームのカツラをかぶってひっくり返ったマネキンが便器と共に設置されている。
タイトルは「輪舞」。なんなんだこれは。
ファッショナブルで格好よい解釈をしてみたかったけれど、なにも思い浮かばない。
ただ心がざわざわするのみだ。
でも、それは妙に気持ちの良い体験だったのだ。
美しくもないマネキンをなんで鏡で増幅して見せるのか。何も便器なんて置かなくたっていいのに。
鏡で幾重にも映し出されるマネキンは混乱して多面的な人間のイメージなんだろうか。
無限に浮かぶクエスチョンマークをたどることは、これまで意識したこともなかった問いに出会うことであり、新しい視点から世界を眺めてみようとすることだった。
この時から、美術に対する私の期待は大きく変わったのだと思う。
美術館を訪れる時の私の本質的な期待は心をざわめかせる新しい問いや視点に出会うことにある。
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何の展示物もない世田谷美術館は、本当に私の心をざわざわさせてくれた。
私は美術館に何を求めているのか、という問い。
これまで訪れてきた美術館で私が得たものは何だったのか、という問い。
災いが続く中で、芸術やエンターテイメントに何を求めるのか、という問い。
作品のない展示室は、心をかき乱して何かを突きつけるという美術館の機能をまっすぐに果たしている。
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一人でいろいろなことを考えながら、抜けるように晴れた帰り道の自転車を漕いだ。
嫌になるほど暑いけれど、気分は良い。
どんなに制限のある環境下でも頭の中は自由だし、世界は新しい発見に満ちている。
作品のない展示室
https://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/special/detail.php?id=sp00203
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