私はそれを直視できない
現実を直視するのは、時にとても怖いことだ。
いったん現実を直視してしまったならば、その事実は自分のものになってしまう。その事実を受け入れて、向き合っていかねばならなくなってしまう。
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夫の暴力が始まったころ、私は追い立てられるようにいろいろな新しいことに挑戦しようとし始めた。
手始めに一眼レフカメラを買った。写真の入門書を買って露出や絞りの使い方を学び、自宅の周辺で人に見せるあてもない写真を撮りためた。
次にオンラインの英会話レッスンを始めた。仕事で英語を使っている友人から情報をもらい、数日以内に申込み手続きを済ませた。夜な夜な寝室に籠ってはフィリピン人の講師を相手に英語で自己紹介をしたり、相手の仕事について質問したり、軽い冗談を言ったりする練習をした。
会社に行けば、これまで経験のなかった分野のプロジェクトに飛び込んで必死になっていた。初めて経験するタスクが山積みで何もかもが覚束ない状態で、毎日溺れないように精一杯で過ごした。
今になってみると自分が何に追い立てられていたのかが分かる。
私は「辛い自分」を認めたくなかったのだ。
私は「結婚生活がうまくいかない自分」を受け入れられなかった。そして「自分の人生はこんなにも充実して、うまくいっているのだ」と思い込もうと、問題から目をそらすことに莫大なエネルギーを費やしていたのだ。
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物事にはいつだって良い面と悪い面の両方がある。それならば私は良い面を見ていたい。これまでずっとそんな風に考えて過ごしてきた。
こう考えることはいろいろな場面で私を救ってくれた。仕事で理不尽な思いをした時も、人間関係に悩んだ時も、少しでも光のあたっている面を見出そうとすることで私は乗り越えてきた。
この考え方は美徳の一つと捉えるべきものなのだと胸をはって思っていた。
しかし、今は思うのだ。いつしかこの考え方はひどく私の心をむしばむようになっていたのではないか、と。
物事の良い面を見ようとするあまり、私は自分にとって直視するのが辛いことや認めたくないことを見て見ぬふりをする技術を身に着けてしまった。そしてそれがポジティブで前向きな望ましい姿勢なのだと思い込もうとし続けてきた。
この技術の恐ろしいところは、自分自身を欺き続けることで、辛さやしんどさを感じる健康な回路が少しずつ焼ききれていくことだ。
こんなことを思い起こす。
私は新入社員時代、頻繁にヒステリックにふるまう先輩とペアを組んで二年間を過ごした。入社10年目を迎えようとする今でも、心を病まずにその二年間をサバイブしたことは「伝説」だなんて言われたりもする。
しかし、なんのことはなかったのだ。辛くても、しんどくても、健康な感情の回路が麻痺しかかっている私には、その状況を乗り越えることはそれほど難しくなかったのだ。
辛さやしんどさから目をそらす技術、それが遺憾なく発揮されたのが、暴力のかたわらで「充実した生活」を一人で演出し続けた数か月だった。誰かに「充実した生活」をアピールしたかった訳ではない。ただただ自分自身に対して嘘をつき続けていたのだ。
当然、そんなことをしていても家族の問題は解決するはずもない。
夫の暴力や暴言はエスカレートし、私は大いに消耗してすり減っていった。
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「自分をネグレクトするのをやめなさい」
私が自分の感情を置き去りにしそうになる度に、繰り返し繰り返し、同じ台詞を言ってくれる人がいる。自分の中にあるしんどさや辛さを無視してはいけないのだと。
いまでも私はそれらをうまく直視できない。しかし、暴力の経験は私がそれらを直視できていないことをはっきりと自覚するきっかけとなった。
そして、そのことに気付いた日から、私は少しずつ自分らしい感情を取り戻す過程にある。