ソープランドのことを「トルコ」って呼ぶ人と話すのは民俗学
タイトルに尽きる。
この間、居酒屋に入ったらカウンターの隣のおじさんが妙に陽気な人で、しきりにこちらに話しかけてくる。
その人は、定年退職していて、たまの休みに1泊2日でどこかに出掛けていって、城めぐりをするのが趣味なのだという。
ただ、彼の趣味はそれだけではない。
居酒屋やスナック、果ては風俗まで、いわゆる各地のナイトスポットをめぐるのが大好きなのだ。彼がどれぐらいナイトスポットが好きなのかというと、スナックに行くためのお金を捻出するために夜のホテルはもっぱらネットカフェで済ましているという。出会ったその日も、その後は近くの名物スナックで遊んで、それから国道沿いの「快活クラブ」というネットカフェまで歩くんだと楽しげに語っていた。
定年退職しているというから、60は越えているだろう。ネットカフェのような環境での寝泊まりは決して楽ではないはずだ。ナイトスポットに向けられたその情熱にはどこか感心さえしてしまうところがあるが、彼との話で興味深かったのは、彼から何気なく発された一言だ。それは、かつての福岡・中洲の風俗を回想しているときのこと。
「あそこらへんのトルコはめちゃくちゃやったからなあ」
トルコ、である。
トルコ、とは、いわゆる「ソープランド」と呼ばれている風俗の一形態のことである。かつてソープランドは「トルコ風呂」と呼ばれていて、ごくまれに、ある年代より上の人はソープランドのことを「トルコ」というのだ。ソープランドのことを「トルコ」と呼ぶことを知識として知っていても、それを素で、しかも何気なくさらりと「トルコ」と呼ぶおじいさんの言葉にどこか惹きつけられしまう。
そこで、ふと、思ったのである。
これは民俗学なのではないか。
民俗学とは、名もなき人々の生活に注目する学問だ。どうも、民俗学というと、「村の長老が〜」とか、「狐の祟りが〜」みたいなことを思いがちだが、そもそも「トルコ」みたいなある種、現代的な、下世話なことだって、名もなき人々の生活の一断面だ。それは「トルコ」を知識として知っているだけではなく、「トルコ」を「トルコ」として生きてきた人々による生の証言である。何言ってるのかよくわからない。
とにかく、私はそのおじいさんの語りに、民俗学的なエッセンスを見出して、一人じいんと感じ入ったのである。つまり、どこにでも民俗学は宿るということなのだ。
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