フェミニズムに関する私の経験
私は20歳で、男子大学生をしています。
ノットオールメン
高校生のとき、軽音部の女友達とバンド組んでいた。あるとき、私のバンドメンバーの1人が、軽音部の先輩である彼氏にひどいことをされているという話をしてきた。私はかわいそうだと思い、「ひどいね」などと彼女に同情した。軽音部外でもその他に、先輩彼氏と後輩彼女におけるこのような構図がいくつかあったことを覚えている。
小さい頃母親が私に、日本の男女の家事分担率について話をしてきたことがある。当時の私としては、日本の男女の家事分担率を平等にすべきだという母の意見に賛同すると、自分が家事をやらされることになると思ったので、「全ての男が家事をしないわけではない」と言い逃れをした。
私は高校からツイッターを始めた。ツイッターではフェミニストとアンチフェミニストの論争がたまに流れてきた。DV男を批判するツイートが流れてきたときには、女友達のこともあって興味を持った。リプ欄には「全ての男がそうではない」というようなリプが沢山ついていた。
「全ての男がそうではない」というのは、私も母に言ったことがあったと思い出した。しかし、「全ての男がそうではない」を、私はDVされた女友達には絶対に言わないと思った。
大学に入り、自分の通う東京大学の学生の男女比の偏りを身をもって実感した。男8女2の割合であることは、大学に毎朝来るたびに実感できた。
教養学部のジェンダー論の授業は取りはしなかったが、初回授業は受け、東大生の男女比の偏りがどうして生まれているのかについての講義を聴いた。講義では、東大生の男女比の偏りは偶然ではないし、生物学的な理由によるものでも必ずしもなく、社会的に生まれているものだということを学んだ。
差別・不平等は社会的に生まれているものだというのを学んだとき、私は「全ての男がそうではない」という言葉が姑息であることに気づいた。「全ての男がそうではない」という言葉には、「問題は存在しない」「問題は個人的な問題であって社会的な問題でない」という含みがある。しかし、差別の問題は社会的な問題として存在する。「全ての男がそうではない」と言ったところで問題は解決しない。ただ問題から目を逸らしているだけだ。
このようにして私はフェミニズムに興味を持ち、講義などで薦められたフェミニズム関連の本をいくつか読んだ。ツイッターで情報を集めたり、差別問題について友達と話したりもした。私はこの後、女性差別問題に関連して現実的に悩むことになる。
恋愛
東京大学のインカレサークルには他の女子大から多くの女子学生が参加しているものがあり、中には実質的に出会い系のサークルもあるらしかった。自分の参加した音楽系サークルは出会い系ではないが、インカレであり女子大の学生が何人もいた。東京大学と銘打つサークルなので他大生は疎外感を覚えやすいだろうし、誤解を恐れず言えば女子大の女からすれば東大の男は優良物件であるため、東大の男と女子大の女の間には権力勾配が生まれやすいだろう。私は自分のサークルで差別的なことが起こらないようにしたいと思った。
私はサークルで同じ楽器担当だった女子大の人を好きになったが、自分がその人と本当に対等に接することができているか疑心暗鬼になって悩んだ。悩んだ結果自分に自信もなくなり、あまり積極的に誘うこともできず告白したら振られた。振られたときは辛かったが、悩みから解放されてある意味ほっとしてしまった。
振られてほっとしたことで、悩みは完全に自己満であり相手のことを考えての悩みではなかったことに気づき自己嫌悪した。自分が正しくいたいという気持ちからの悩みにすぎなかった。
私は自分のことしか考えていないため、現実の周りの人間と恋愛をすべきでないと思った。
『僕の狂ったフェミ彼女』という小説は、彼氏と別れてからフェミニストの活動をするようになった女と、彼女とヨリを戻して結婚しようとする元彼の男の物語である。この小説では、男女は結婚すべきという社会的な圧力と、フェミニズムが解決しようとする問題との間の現実的な葛藤が描かれていて、面白かった。
恋愛・結婚と、フェミニズムの間の問題はとても大きいと思う。恋愛するということは彼氏・彼女になることであり、当然のように男らしさ・女らしさをそれぞれに要請する。それを煮詰めていけば、結婚したら「男は仕事、女は家事・育児」になるのも当たり前の帰結に思える。家長の夫は妻に対して、伝統的にも経済的にも裏付けられた権力を持つようになる。こうして男女格差が再生産されていく。
マンスプレイニング
高校の時、私はクイズ研究会に入っていた。クイズの作り方も覚え、作った問題を答えてもらえる楽しさも知った。クイズはみんなが楽しめると思っていたので、授業間の休みなどに雑談の一環で周りの席の友達にクイズを出すことがあった。クイズは男女関係なく出していたが、何人かの女友達に出題したときには、明らかに知っていそうな難易度の問題でも毎回「分からない」と言われ、答えを言うと毎回興味なさげに「すごーい、知らなかった」と言われることがあった。彼女らは答えを絶対に知っているはずだし、自分は全然すごくないと分かっていた。そのとき私は、クイズそのものを否定されたと思った。
ツイッターでマンスプレイニングという言葉を知った。マンスプレイニングとは、男が「女は何も知らないだろう」と思って無駄に一方的に説明を押し付ける行為のことだ。私は、男が女に簡単なクイズを出すことがマンスプレイニングとなる可能性について考えこんでしまい、安易にクイズをすることがだんだんできなくなっていった。
マンスプレイニングという言葉の広まるきっかけとなった本『説教したがる男たち』を読んだ。この本では、男が女に無駄な説明を押し付ける行為から始まって、家の問題、性暴力などの女性差別の問題を論じられていた。ただし、著者自身はマンスプレイニングという言葉を使っていない。私はこの本を読んで、マンスプレイニングをやめること自体が大切なのではなく、男が女より優れているはずだと期待するのをやめるのが大切だと思った。
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