「わたし」が溶ける、人類学
数か月前に「本が読めない」というnoteを書いた私が、久しぶりにするすると読めて、「そうなんだよ!!」と膝を打った本があった。
それが、NHK出版の「学びのきほん」シリーズ、松村さんの「はみだしの人類学-ともに生きる方法-」。
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000064072542020.html
もう、この学びのきほんシリーズを学校は教科書にしたらいいんじゃないかと思うほど、難解な言葉を使わずに知的好奇心を呼び起こしてくれる。
「文化人類学」とはどんな学問なのか?を始まりに、「わたし」と「他者」、「国」「民族」「違い」などのテーマについて掘り下げる。
改めて、私は文化人類学的な視点に興味があるのだなあ、と確認させられた本だった。農学部で農業経済・農村政策について勉強し、その後地域づくり・地方創生の文脈の中で仕事をする中で、たまに私の関心はこの分野の本流とずれてるんだろうなあ、と思うことが多々あるが、その理由がここにある気がする。
人と人のあいだ、コントロールの外にある、自然に生まれたりこぼれたりしてしまうものに興味がある。
「つながり」には2つある
この本では、2種類の「つながり」について話されている。つながりって、日ごろ本当によく聞くしよく使ってしまう言葉だ。そういう便利な言葉って、もっと複雑なものだったとしてもなんとなく分かった気にさせてしまうよね。
この本によると、ひとつは、「存在の輪郭を強化する」つながり。もうひとつは、「存在の輪郭が溶けるような」つながり。だそう。
前者は、存在と存在の「違い」がはっきりすることで成り立っているつながり。後者は、それぞれの存在の違いや特徴がこれ、と断定的かつ永続的に決まっているものではなく、変わったり重なったりお互いに影響しあってつくられている関係性のこと。
これを読んだ時、この2つが私には感覚的にとてもよくわかった。なぜかというと、私がずっと言語化したいと思ってた2種類の関係性のことだからだ。
SNSでプロフィールを公開してつながる時代、個性が尊重される時代。外部から外部のタイミングで押し付けられる「個性を大事に」「自己分析をしなさい」「自分にしかできないことを」という言葉たちにはどこか息苦しさも感じる。それは、「輪郭を強化する」つながりだけだからだと思う。一方でもちろん、誰でもいい、完全に取り換え可能なコマだと見られるのも、承認欲求が満たされないのだけど。
「自分の中の自分」みたいなものを大事にしながらも、他者と影響し合いながら生きていきたい。固定されたものを揺さぶられながら、この本の言い方で言うと「やわらかな」わたしでありたい。
それを最終的に、前者のつながりで生まれるのが「共感」、後者で生まれるのが「共鳴」だと松村さんは綴る。「共鳴」には、お互いが変化することが大事だと。
地域インターンは「わたし」が溶ける体験
私が仕事でやっている、大学生が農村に滞在するインターンシップ。特に1か月以上滞在するインターンシップで、都会からやってきた学生たちがよく言っていることと、この「つながり」がリンクする。
大学生は、「輪郭を強化するつながり」に疲れているところがある。急に大学での過ごし方の選択肢が増えて、誰からもこれをやれと言われなくなったと思ったら、あなたは何がやりたいの?将来どうするの?と聞かれたり聞かれているかのような雰囲気にのまれていく。
農村に来た学生から、「何もしなくても喜ばれてうれしい」「一緒に農作業したり、住民のひとりになっているかのような時間がうれしい」という声を聴く。あとは、「毎日おしゃべりしていたおばあちゃんが元気になってくれた」というのも。これは、「輪郭が溶けるようなつながり」だと思う。
わたしの輪郭が少し溶けだしていくような、なんとなく役割があるようなないような、そんな状態。実はとても心が楽になっていたりする。
もしかしたら、オンラインではなかなかこの感覚が得られないのかもしれない。これから、現代において減ってしまった「輪郭が溶けるつながり」をどこで得られるのかをまた考えてみたいと思う。
この本の最後は、自分を固定せず、直線ではなく曲線で生きようという話で締めくくられていて、そこにも完全に同意した…本当に、何度も読んで咀嚼したり、誰かと語りたい一冊でした。